★「ヨーロッパ二人旅」





★「ヨーロッパ二人旅」


2011.11.11

[河内長野市] 堀切 艶子(ほりきり つやこ)

 ギリシャ・イタリアを旅してから二年。再び全盲の私と還暦を過ぎた夫との二人で、
ヨーロッパを旅することになりました。二年前の旅は新婚旅行と同じコースをたどる旅
でしたが、今度の旅はその続きをたどることと、以前の旅で知り合ってから交流の
続いている友人宅を訪れる旅です。
 新婚旅行は先に出発した夫とアテネで合流し、ギリシャ・イタリア・スイス・
フランスと廻りパリから帰るものでしたが、二年前の旅はその半分しか
たどれていません。夫はそのことを、どういう訳か気にしていたようでした。旅好き
の夫ですから、何か安い航空券はないかと絶えず探していたようです。航空券を買いに
行く日の朝でも私は決断しかねていました。「買って来た。」の一言で旅は決行です。
行くのは元気な内にと夫は言いますが、23日間の長さや暑い夏であること、おまけに
暑いバンコクで一泊しなくてはなりません。安い航空券のはずです。
 二年前の旅がそうであったように、今度の旅も心臓がドキドキさせられることが何
度もありました。それはツアーの旅にはない醍醐味なのかもしれませんが、白杖を持
つ私と
六十歳を過ぎた夫との行き当たりばったりの旅は、さまざまな困難に行き当たります。
今度の旅ではイタリアでの事件で新婚旅行のコースを辿るという計画は全く
実現しなかったのです。それでも23日間で、ついでに行ったタイと、イタリア・
オーストリア・ドイツ・ベルギー・ルクセンブルグ・フランス・フィンランド・
スウェーデン・ハンガリー・スロバキア・ポーランドの12カ国を廻ってきました。
日帰りで数時間しか滞在しなかった国もありますが、以前のようにビザが必要だった
り、その国の通貨に変える必要があればこんなに多くの国お
訪ねることはできなかったでしょう。
 空港まで見送りに来てくれた娘が夫に
「お母さん頼むよ。お母さんの言うこと聞いてやってね。」と。
胸が熱くなりますが、きっと夫は耳に栓をしている状態でしょう。
これからの事で頭がいっぱいでしょうから。

 2011年8月3日

 ついでのタイの旅の始まりです。6時間のフライトでバンコクの東にある
スバンナブルーム空港に到着。夫はタイには二度来ているので自分がまだ行っていない
アユタヤへ行くことと、そこで象に乗ることが目的です。その為には今日中に
アユタヤまで行こうというのが夫の予定でした。が、たまたま飛行機の中で隣り合わ
せになった方がタイの女性と結婚して奥さんと里帰りするところだとか。
今日中のアユタヤ行きは無理しない方がいいです、明日でも充分アユタヤ往復はでき
ますなどの情報を得ました。
余分な荷物を手荷物預かりに置き、空港の外へ。やはり暑い。でも大阪と
同じくらいかな。バンコクのフォアランポー駅へはこれだと教えてくれたバスは
乗り込むとすぐ出て、タイミング良かったなと喜ぶ間もなく、
「このバスはここまでです。5番のバスに乗れ。」と言います。
そのバスがフォアランポー駅に着くかと思うと、また
「このバスはここまでです。タクシーでフォアランポー駅まで行け。」と言います。
一体どうなっているのでしょう。スバンナブルーム空港が開港する前後に起こった
クーデターの影響もあるのでしょうか。空港と鉄道駅との連絡がまだ整備されて
いないようです。私たちはあまり外国でタクシーに
乗りませんが、それしかないようなので乗ることに。しかし、言葉が通じません。
夫の発音が悪いのかとも思いますが、フォアランポー駅は大阪で大阪駅へ行ってと言う
くらい大きな駅なのです。しかたなく降りて次のタクシーに乗ると、また通じません。
それなのに「ハイウェー、オーケー?」とだけは言うのです。ハイウェーは
ないはずと夫。またまた降りることに。すると、
「あなたたちはどこへ行きたいのですか。」と英語で話しかけてくれる女性がいまし
た。そしてやっとフォアランポー駅まで行ってくれる
タクシーに乗せてくれました。しかしこのタクシーの運転の荒いこと荒いこと。
道を曲がるたびに私は窓に頭を打ちつけました。
そのバンコク・フォアランポー駅に着くと、やはりそこはタイです。日本にはない匂
いがします。私たち視覚障害者にとって嗅覚も大切な情報源です。それからするとタ
イは私に絶えず情報を提供してくれています。つまり絶えず何かの匂いがしているのです。
それは嫌な匂いの時が多いですが、良い匂いの時もあるのです。お香のような香りで
す。駅で日本語で話しかけられた女性に紹介してもらったホテルに決めると、案内までして
くれました。えらく安いホテルです。そこまで安くなくても良かったのにと思います
が、クーラーも付いた清潔なホテルです。タイではクーラーが付いているかどうかで料金が
変ります。このホテルは一部屋、朝食なしで500バーツ(1250円)です。
夕食はやはり日本語で話しかけられたお店で海老炒飯などと飲み物はコーラを注文。
「氷は要るか。」と聞かれ、夫はウッカリ「要る。」と言いましたが、
「こちらの氷はやめた方がいいよ。」と私。日本語で聞かれて、つい注文
しそうになりました。ここの支払いも300バーツ(750円)と
安いけれどおいしかったです。

 8月4日

 早起きして駅へ向かいます。荷物をホテルに預かってもらったので身軽です。
フォアランポー駅は戦前からの古い古い駅です。夫の父は第二次世界大戦の時
タイでタイメン鉄道を曳くことに関わっていたらしいので、この駅も父は見ていたかも
しれません。その駅でタイの人たちが私をジロジロ、しきりに見ていると夫が言います。
白杖を持つ日本人が珍しいのでしょうか。そして、せっかく早起きしてアユタヤ往復
しようと思っているのに列車は1時間近く遅れての発車です。アユタヤへはバンコク
から北へ一時間半乗るのですが20バーツ(50円)です。これは昨日少ししか乗ら
なかったバスの40バーツより安いではないですか。ただこの20ばーつの運賃は二
等の料金で、私たちが座っていた席は一等の席でした。検察に来た車掌さんに車輌を
移動させられました。どうりで座席のクッションが良いはずですが、駅と
同じように古い古い列車です。しかしこの列車に乗り込む時の階段は私の短い足では
とても届かないくらい一段が高いのにはビックリです。50cmはあったでしょうか。
 今回の旅でもやはり列車の乗り降りは最も緊張する一瞬です。いろいろな列車が
あるように列車の乗り降りの仕方もさまざまなわけです。
 アユタヤは昔アユタヤ王朝があった所です。日本に帰ってからアユタヤの洪水の
ニュースを聴くとアユタヤは私が想像していたより遥かに広大であることを知りまし
た。私がアユタヤと思っていた場所はほんの一部のようです。山田長政がいた日本人町の
アる所もアユタヤであり、それはバンコクから北へ上がった西側にあるようです。
私たちが行った場所は日本の京都のようにお寺や遺跡が多くある所です。周りを川で
囲まれた、大阪の中ノ島のようになっていて、天然のお堀になっているような感じで
す。駅から歩いてすぐの所に渡し船がありますが、その前に山手へ行った所で象に
乗ることができるというので、トゥクトゥクなるものに乗って行くことにします。
バイクの後ろに5・6人くらいが乗れるホロ付きの車を引っ張っているものです。
しきりに一日中廻って、いくらだと勧めてきます。これを
断るのもたいへんです。それを断り、象の所でいいと、そのトゥクトゥクに乗りまし
たが結局また帰りもそのトゥクトゥクは待っていました。
 象に乗るのは二人で30分、2200バーツ(5500円)。
昨夜のホテル代よりも高いです。でも象に乗ることが目的で来ているのですから、
高いと言っておられません。しかし今まで触ったこともない象に乗るのですから勝手が
わかりません。夫も右だ左だと言ってくれてはいますが、
象使いの人も巻き込み大騒ぎです。大きな象ですから階段を上がって象に
乗り移るのですが、ここで私が落ちたらえらいことになると夫の方が
冷や冷やだったようです。見えない私の方は言うように足を動かせば良いだけで、
それほど怖くありません。その象は56歳のおとなしい年取った象です。固い毛の
生えた背中を触ってもプワーッと鳴きもせず、私たち二人をゆっさゆっさと揺らしな
がら歩きます。同じように象に乗った多くの日本人とすれ違います。
ツアーの中に入っていると聞きました。
 トゥクトゥクで駅まで戻り、今度はアユタヤ王宮のあった島へ小さな船で渡ります。
この船に乗るのも夫の「まっすぐ行け。」の声を頼りに板切れの上を歩きます。日本に
帰ってアユタヤの洪水のニュースを耳にしてみると、この時に板切れで渡った土手と
川面にそんなに差がなかったと改めて思います。アユタヤ王宮のあるこの島は多くの
遺跡があり、とても一日くらいで廻りきれるものではありません。タクシーが三時間
900バーツ(2250円)で5箇所廻るよと誘ってきます。安易にタクシーに乗る
のは夫は嫌いですが、100バーツ値切って乗ることに。
 最初はマハタート寺院。広大な敷地に頭を切り取られた石像が延々と続く寺院です。
切り取られた石像の頭を木の根っこが包み込んでいる写真で知られている寺院です。
あまりに広く人も多くいません。聞いたことのないきれいな声の鳥が鳴いています。
日本人の夫婦がいたので、その写真で有名な所を尋ねました。もう一人いた若者が
あまりに良く焼けているので現地の人に案内させているのだと思い、聞いたのでした。
そのよく焼けた若者は息子さんだそうで、タイで働いているのだそうです。
言わなくてもいいのに夫が、「現地の人かと思いました。」と言ったものだから、
その親子はケタケタ笑いました。
 次に廻ったのは涅槃像です。ビルマのたて琴の映画で観た像ほど大きくはないと
思いますが、裏側にも周れ、足の裏も触ってきました。もちろん石造りですが昔の人が
それを運ぶのは、どんなにか骨の折れることだったかと思います。
 次は奈良の大仏様より小さく鎌倉の大仏様よりは大きいと夫が言う大仏様
プラモンコンボピット。一度では覚えられない名前です。お顔の様子は日本のそれとは
違うようです。大仏様の割りに建屋が小さいのか、思いっきり首を上げないとそのお
顔を見ることができないらしいです。
 そこを出ると人を乗せた象が通っています。ここでも象に乗れるのかと夫。
その場所へタクシーを廻してもらうことに。かわいい小象が芸をしています。
夫の父がタイメン鉄道を曳くのにも象を使っていたことや、象はとても
賢いと言っていたことを思い出します。その小象に夫が餌をやっているのを、見えない
私が写真を撮っているので、見かねたのでしょうか、オランダから来られたという女
性が「撮りましょうか。」と声をかけてくれました。小学生くらいの子供を連れてタイまで
旅行に来ているようです。ヨーロッパの方からずいぶん旅行に多くの人が来ています。
ヨーロッパからだと日本ほど遠くない上に、何より物価が安いからでしょう。
 最後がヤイチャイモンコン。ここはいくつもの円錐形の石塔があります。円錐形は
聖なる山を意味するとか。だから仏壇へのご飯のお供えも山のように円錐形に
盛るのでしょうか。参道を
歩かないといけないためか、ずいぶん前でタクシーを降ろされ、歩くことに。
しかし今日は暑い、暑い。首に用意した冷えるタオルを巻き、
水をしょっちゅう飲みます。 そこからすぐ横に、ウイハーンソムベット。ここだけは
入場料を払わなくてはなりませんでした。昔、儀式を行なった寺院だそうで金色に輝く
塔のような建物が三つ建っているようです。その狭くなった出入り口の所で、
お守りなどの売り込みがしきりに続きます。向こうも勉強していて、日本語で
「社長さん。社長さん。」と呼び止めます。
 振り切りタクシーの待つ場所へ。待つ場所が違うのかなと、あちこち探し周ります。
それにしてもタクシーの運転手さん、私たちがここで別のタクシーに乗ったら今まで
のは乗り逃げですよ。そこへ私たちの乗るタクシーが現れました。どこか木陰で昼寝を
していたのかしら。駅まで送ってもらって800バーツ(2000円)を
1000バーツ(2500円)で支払うと、おつりがないから換えて来ると言います。
日本では考えられないですが、もういいと言うのを期待されていたのでしょうか。
駅でフォアランポー駅へ戻る列車を待ちます。予定の時刻には当然来ません。
やはり1時間近く待って乗ることになりましたが、いつ来るのかわからないので
飲み物を買いに行くにも行けません。それでも買いに行くのが夫です。ハイスピードで
帰って来るどころか、なかなか帰らないのです。待っている方の身になってほしいわ。
そしてこの駅、どのホームで列車を待てば良いのか、ハッキリわかりません。歩きに
くい線路をまたいで別のホームへ行きますが、このホームが正しいのかどうか。
それでもやっと乗り込み席を確保。列車は冷房が効かないので窓全開で走ります。
いろいろな匂いが窓から入ります。戻ったホテルがシャワーを浴びさせてくれました。
汗だくのまま飛行機に乗るのはゾッとします。スバンナブルーム空港や
フォアランポー駅にも探せばあるにはあるらしいです。
スバンナブルーム空港からローマへのフライトは8月5日と
日付が変わってからですが、早く行くにこしたことはないので、夕食もとらず
空港へ行くことに。今度は地下鉄と電車で行くことができると聞いたので、
そうすることに。しかしスムーズにいかないのが私たちの旅です。まず地下鉄の
入り口で、警察官に呼び止められました。私たちはロンドンのデモ騒ぎの事件を、
この時まだ知らなかったのでなぜだろうと不思議でした。その地下鉄は新しくできた
ものらしく、私の障害者手帳を出すと私の料金が無料だと言うのです。そこまでは
良かったのですが、私に切符がないわけで降りる駅では無賃乗車ということに
なりました。障害者割引で乗ってきた初めての乗客を巡って駅では大騒ぎとなりました。
この地下鉄は新しいので切符ではなく、プラスチックのチップです。でも私に
そのチップの発行がないのは、こうした騒ぎがまた起こると思いますよ。その時間を
取られた地下鉄の駅から、これも新しくできた空港まで行く電車が繋がって
いないのです。地下鉄の駅から一旦外へ出て暗くなった、わかりにくい道を15分
くらいは歩いたでしょうか。これでは新しい空港を開港した意味がないようです。
その空港行きの電車は他の物価に比べ高いです。早めに出たはずなのに空港は
旅行客でごった返しています。チェックインするにも長蛇の列です。
ずいぶん並んだ後、前の女性が
「ハンディキャップのある人は隣の列に行ったら良いですよ。」と教えてくれました。
それでもチェックインして充分な時間の余裕があったわけではありません。

 8月5日

 バンコクを夜中に出て10時間乗ってもタイとの時差が5時間あるので、ローマ到
着は朝6時です。そのローマのダビンチ空港から列車でテルミニ駅へ。30分で14ユーロ
(1500円)と一気に物価が跳ね上がります。この列車に夫が荷物を先に載せ、私が
ホームで待っていた時、列車のドアが閉まりました。
この時、少々私は慌てました、ローマに着いて最初に乗る列車だったので、こちらは
自分でボタンを押してドアを開ける方式であることを忘れていました。
さてローマでの一日の始まりです。今回の旅は友人のお宅を三軒廻ることになって
いるので、それぞれのお宅へと持ってきたお土産を一軒目のお宅に送ろうと
思っていました。実はそれぞれのお宅で日本の味をと「ぜんざい」を炊こうと小豆や
白玉粉も持って来たので荷物を重くしていました。以前にイタリアのフィレンツェで
買ったマンドラの楽器をチッキでオランダのアムステルダムまで送りました。
ユーレールパスの鉄道切符を持っていればヨーロッパのどこの駅にも届けてくれる
チッキのシステムです。そのシステムを利用しようと
思いましたが、なにせ20年前のことです。テルミニ駅の手荷物預かりで聞いても
わかりません。夫は私を荷物番に置き、あちこち聞きに行きました。これがまた長いこと
帰って来ません。一時間以上は待ったでしょうか。たまりかねて夫の携帯に電話を
かけると「道を間違えた。もうそこまで帰ってる。」と。見えない者が一人で荷物番を
するのが、どれだけ心細いか夫にはわからないでしょう。この時私はやはり今までに
ない不安な気持ちでした。二年前は白杖を出していた方が良いのか、カバンに入れた方が
良いのか迷いました。外国でいくつもの荷物の番を見えない者がしているのを気にか
けてくれる人もいれば、それを利用しようとする人がいるのではと思うからです。
今回の旅では一人の時は白杖をカバンに入れました。それでも私が見えないということが
知られてはいないかと、周りでボソボソ声がすると怖くなりました。
 そして、いつものようにケロリと戻って来た夫と少しだけ離れた
エレベーターに乗った時のことです。私たちの旅のコースを大幅に変更することになった
最初の事件が起きました。
エレベーターには高校生くらいの女の子二人がすでに乗っていました。
夫が一階へのボタンを押してすぐ、「あれっ、財布がない。財布がない。」と
言い出しました。「おい。お前と違うか。」とその女の子二人に夫が言います。
そう言っている間もなくエレベーターは一階に着きました。
それでも夫が「ちょっと待て。お前が盗ったやろ。」と、バリバリの大阪弁で
叫んでいます。こんな時は相手に大阪弁でも通じるのですね。エレベーターの床に財
布を
棄てたようです。そこへ次に乗ろうとしていた人たちの後ろから二人の警察官が現れ、
その二人にすぐ手錠をかけました。私は心臓はドキドキ、手は震え出しました。
ローマはスリが多いと聞いていましたが、まさか自分たちの身に起こるとは。
手錠をかけられた二人の後ろから私たちもテルミニ駅の構内を派出所まで
歩かされました。見えない私でもきっと周りのみんなが見ているだろうと想像できま
す。
 そこからまた今度は車で警察署へ。警察署に入るとパスポートを盗られたと
いう日本人二人が。イタリアでは日本人が狙われていると実感。
 それから4時間、私たちは警察署で拘束されることになりました。
 この日予定していたヴィラデエステへは行けなくなりました。ヴィラデエステは
世界遺産になっていて、たくさんの噴水がある貴族エステ家の宮殿です。
行きたかった所なのに残念です。
 警察署では英語の話せる女性警察官が「どうして盗られたか。これからどこへ
行くのか。」など、他の警察官とともに聞いてはパソコンに打ち込んでいます。
財布を盗った方の二人の調書と合わせるのでしょうけれど。警察官の人たちは
パンをかぶり、ジュースを飲みながら、ダラダラと私たちに質問します。
私たちが昼食抜きなのにです。4時間以上経って、やっとイタリア語で書かれた調書に
夫がサインさせられました。10枚もサインしました。そして日本に帰ったら
イタリア警察に感謝の手紙を書くように催促されました。捕まえてくれたことに
感謝はしますが、催促されるとは。その後ホテルまで車で送って頂いたことですので、
もちろんお礼状は出しました。ホテルの前の歩道に車を横付けして
「ここは警察だけが止めて良い所だ。」と強調していました。
この日のホテルは二年前にも泊まったホテルで、朝食なしで一部屋68ユーロ
(7500円)で、夏は少し高くなっています。夏のイタリアはとにかく観光客が
多いので駅から3分のこのホテルがこの日よく取れたと思います。
いつも私たちの旅はそこへ行ってホテルを取る方式ですが、夏のイタリアの観光地では
取れないこともありました。新婚旅行の時のカプリ島、1991年に家族でイタリアへ
来た時のベネチアでもそうでした。そして今回の旅ではもっと観光客の多さを
実感しました。
 この日の夕食はホテルの外でするのも危険な気がしましたが、ホテルの隣りがピザと
パスタのお店なので行くことに。肉詰めパスタのラヴィオリとぺペロンチーノを
注文。山のような量です。とても食べ切れませんでしたが、快くテイクアウト
させてくれました。

 8月6日

 さて今日はウィーンへ送ろうと思っていた荷物が送れなかったので、まずはウィー
ンへ行ってから新婚旅行のコースに戻ろうと昨夜の会議で決定。朝食も摂らず
テルミニ駅へ。今日から15日間一等車乗り放題のユーレールパスを使用開始です。
 新婚旅行の時も家族での旅行の時も、これさえあれば夏のイタリアであっても列車には
乗ることができました。しかし2011年、夏のイタリアは違っていました。
ユーレールパスを持っていても座席の予約なしでは乗ることができなくなっていまし
た。とにかく観光客が多いのです。日本のお盆には、帰省ラッシュで新幹線の乗車率が
130パーセントだ150パーセントだという報道を耳にします。しかしイタリアでは
座れないのを覚悟で乗ることができないのです。その為いくらユーレールパスを
持っていても列車に乗ることができないということになります。夫が
「どこでもいいから北へ向かってイタリアを出たい。」と窓口で掛け合っています。
 そして「トレノ」まで行く列車の予約を取って来ました。そのトレノとはどこなのか
夫の持つ地図には載っていません。そのトレノ行きと
あのオリンピックが開かれたトリノ行きが1分違いで電光掲示板に
表示されています。と言うことは、トレノはトリノとは違う場所なのかと言いつつ
トリノ行きのホームの14番線ホームへ。また引き返すような気がしましたが、
案の定そのホームの人に聞くと、「あなたのトレノ行きは3番線ホームよ。」と
英語を話す方が。二年前に24番線まで走らされたテルミニ駅を今度は14番線から
3番線まで急ぎ足で。
しかしトレノがどこにあるのかもわからずに列車に乗り込むことに。
その列車の検察に来た若い女性の車掌さんに聞くと、
「ベネチアメストレで降りると北へ向かう列車があるかもしれません。」と聞き、
そこまでは乗ることにしましたが、なにせ満席の状態です。
とりあえず空いた席に座っていると、途中から乗って来た人が、「そこは私の席よ。
」と容赦なく席を立たされました。予約といっても二人づれの予約ナンバーがバラバ
ラに発行されているようです。座った席が自分の席という感じでみんな座っています。
それなのに見えない私を移動させるのかと少々腹がたちます。でも若いトルコ人の夫
婦が周りにかけあって私たちを自分たちの前の席に座らせてくれました。
その夫婦と夫がトルコへ行ったことなどを話している時、また言い出しました。
「あれ、財布がない。財布。」と。前に座っていた席や、さっき行ったトイレなどを
探しますがありません。せっかくイタリア警察で返してもらった財布を。
またすられたのか、落としたのか。全く夫は、ここが日本とは違うイタリアですよ。
いつものようにズボンのポケットに入れるのは絶対にダメだということを。
昨日学習したばかりなのに、なんということでしょう。持って出たユーロを全部財布に
入れていたわけではありませんが、それでも30000円くらいは無くしたようです。
夫が旅慣れているのかどうか、こうなってくるとわからなくなります。
これ以降大事なパスポート、ユーレールパスとユーロの半分は私が持つことにしまし
た。財布探しは諦めてベネチアメストレで降ります。あのベネチアの一つ手前の駅です。
それでも観光客でごった返しています。
北へ向かう列車に乗り換えられるでしょうか。駅の窓口で
「ウィーンへ行きたい。」と言っても三日後の予約しかないとのこと。
それでも夫は窓口を換えたりして掛合っています。
「ここで泊まろうか。」と私が言っても、夫は
「もうイタリアから速く出たいよ。ホテルも取れんやろ。列車の予約も三日後しかな
い。何度も言うから窓口のおばさん、自分でパソコン画面見たらって、怒ってたわ。」と。
ホテルはこんなに観光客が多くては泊まれるわけはない、列車の予約も取れない。
この時はほんとうに困りました。夏のイタリアは来るべきではありませんでした。
しかし頑張り続けた夫は、「クラーゲンフルト」への予約を取ってきました。
これでイタリアを脱出できそうです。さてクラーゲンフルトはどこでしょうか。
夫も行ったことがありません。名前からするとイタリアでないことはわかりますが。
地図を見るとオーストリアの西の端です。この予約が取れるまで駅の待合でまた私は
荷物番をしていましたが、スリにあったイタリアですからローマ以上にドキドキでした。
そのベネチアメストレの駅に着いてから5時間後。クラーゲンフルト行きの表示が
電光掲示されないのです。もう発車時刻が迫っているのにです。またまた窓口の
おばさんのところへ。するとビックリするではないですか。それはバスの予約だと
言うのです。列車の窓口で売るから列車だと思っていたのにです。それならチケットを
出す時に一言バスですよと言ってくれればいいのに。大急ぎでバス停を探して移動で
す。するとバス停には大勢の人が待っていました。あちこちの国に向かう国際バスです。
ここだと言われた場所で待っている道の向こう側にそれらしきバスが来ました。
夫が尋ねに行くと、やはり私たちの乗るバスでした。
「イタリアは一人の人に聞いて信用したらダメやな。」とぼやきながらバスに
乗り込みます。このバスは国際バスなのでパスポートの提示を求められました。
列車で国を超える時にはフリーなのにです。バスに乗ると座席番号が夫と私はやはり
別々の席でしたが、親切な方が私の白杖を見て周りの人に掛合ってくれていました。
そのバスに乗るやいなや、そこはもうイタリアではなくドイツ語の世界です。
イタリア人の大きな声で喋る語り口と違って、なぜか物静かで落ち着いた
感じがします。ドイツ語の話せない私でも、ヤレヤレという気持ちになります。
 私はマンドリンを弾くのでイタリアは好きな国でした。
しかし今度の旅でイタリアのイメージは変りました。夏のローマに入ってしまったこ
とで騒々しいイタリアを知りました。でも若い時にはこの騒々しさを鬱陶しいと
感じていなかったのかもしれません。
 クラーゲンフルト行きのバスは大きな声で話すイタリア人が乗っていないので、
3時間ぐっすり眠ってしまいました。着いたのは夜10時を過ぎていました。
クラーゲンフルトの鉄道駅に着いたのです。夫が
「駅で休んで朝一番の列車でウィーンへ行こうか。」と言い出しました。
なんと元気なことでしょう。今日のさまざまな事件で私はもうクタクタです。
ここは私の意見を通してもらってホテルを探すことに。駅前ですがホテルらしき建物が
見当たりません。こういう時はタクシーに頼るしかありません。
最初に連れていかれたホテルはホテル自体が夏休みを取っているのか誰も出てきませ
ん。二軒目で部屋が空いていました。廊下に色々な調度品が並べられた品の良い
ホテルです。もっともそれらの調度品は私には歩きにくいものでしたが。

 8月7日

 そのホテルは朝食付きで一部屋80ユーロ(8800円)ですから、決して高く
ありません。その上、朝食の豪華なことに夫は感激です。フロントの方に聞くと
ウィーンには三時間半で行くことができるとのこと。今日はここクラーゲンフルトで
過ごして夕方の列車でウィーンに行くことに。
 列車でウィーンとは反対に西へ少し行ったところに大きな湖ベルター湖があると聞き、
行ってみることにします。細長い湖のようで、一つ目に止まった駅辺りからもう
そのベルター湖は見えているようです。六つ目の駅フェルデンで降り10分くらい
歩いたでしょうか。ベルター湖のそばに出ました。途中に湧き水の出ているところも
ありました。たくさんの人が泳いだり、ボートや遊覧船に乗っています。夫が
「しまった。水着忘れた。」と後悔しきり。その代わりなのか
「ボートに乗るぞ。」と。すぐ私は「小さなボートは怖いわ。遊覧船に乗ろうよ。」と、
言ったのに、その返事がないのです。私を道端に置いたまま、もうボートに
乗ったようでした。私が見えないということをボートに乗ってから「しまった。」と
気がついているでしょうか。私は物事を深刻に考える性格ではないので、視力を
失ってからも泣いたりしたことはありませんでした。が、この時は道端に放り出され
て、一歩も動けない自分が情けなくなりました。そんな私にボート屋の若い子が声を
かけてくれ、椅子に座らせてくれました。
 30分すると夫が帰ってきました。
「この湖は大きいわ。三分の一も行かれんかった。」と。そこからしばらく私は口を
ききませんでした。そして夫「遊覧船の乗り場はどこかな。」「もういい。」と私。
こういう時でも手を繋いで歩かないといけないのは悲しいですね。
湖にせり出した水上レストランで食事をすることになって、そこで
「見えなくなってから、見えないことで初めて涙が出たわ。」と吐き出しました
これでこの冷戦は止めることにしました。いつまでも引きずっていては、せっかくの旅が
だいなしになります。手に手を取って歩かないといけないのですから。
 夕方5時、オーストリア西の端クラーゲンフルトから東の端ウィーンへの列車に
乗ります。もちろん一等車乗り放題のユーレールパスで。イタリアの国境を越えると、
もう列車の予約なしで乗ることができます。それも列車はガラガラに空いています。
ドアから近いコンパートメントに入ると六人用に二人の人がいるだけでした。向かいの
サラリーマンと思われる方が降りる直前までノートパソコンのキーを叩いていました。
列車は冷房がやたら効いていて私は降りる頃には、風邪気味状態に。
明くる日、マニー・ロンバートのお宅で風邪薬を飲んで一日寝ることに
なってしまいました。列車はウィーンマイドリン駅に着きます。マニーのお宅は
その駅からウィーンの環状線で七つ目のプラターシュテルン駅で降ります。その環状
線は見えない私が乗り降りするのに最も困難な列車でした。マイドリン駅で、
環状線に初めて乗る時のことです。夫が
「列車とホームが20センチは開いてるぞ。」としきりに強調しています。私はその
先に階段があるのを一瞬忘れたように思います。前にバタンと倒れました。この時は荷物も
あったので一人で乗ったのです。すぐ見知らぬ方が私を起こしてくれました。
この時も心臓はドキドキする上に、手は震えました。
荷物を持って勝手の違う外国の列車への乗り降りは危険だと実感した一瞬です。
 ウィーン環状線は遠くへ行く国際列車と違って停車時間が短いことも、
あわてさせられた原因です。
 さてそのマニー・ロンバートとは夫がウィーンの教育省に手紙を出した
12年前からの付き合いです。私は今回初めてお邪魔するのですが、夫は何度もお世
話になっています。そのマニーには8月17日から三日間お世話になると
連絡していました。が、急遽この日に行くことになって、ベネチアメストレのバスの
中からメールはして、オーケーの返信メールはもらっていました。しかしオーストリ
アに入ってすぐ携帯電話が通信不能になりました。マニーのお宅はアパートなのでア
パートの下まで来たら鍵を開けるので電話をするようにとメールを受け取っていました。
そのアパートの下まで来ましたが、さてどうしたものかと悩んでいるところに人が。
マニーと同じアパートの方で、外から偶然にも帰って来られたのでした。
私たちの旅はアンラッキーもあるけれどラッキーにも多く巡り合っています。

 8月8日

 朝から雨です。ちょうど都合よく、私は風邪をひいてしまったので一日
マニーのアパートで寝させてもらうことに。マニーは大学でドイツ語を外国の人に
教えています。最初に知り合ったのは奥さんのヒリーの方です。奥さんのヒリーが、
教育省で働いていた時にそこへ夫が手紙を出して知り合ったのです。夫はヒリーが
女性だと知らずにメールのやり取りをしていました。そのうちにご主人がいることも
わかり、ご主人のマニーともメールのやり取りをするようになったのです。
 2001年、娘が卒業旅行をヨーロッパまでいっしょに行くという友達やお金もなく
仕方なく夫と卒業旅行をした時にも、ここマニーのお宅を拠点にさせて頂きました。
でも娘は途中から夫と別々の旅をし、別々に帰って来ました。
この時から娘は夫と同じように一人旅の面白さを知ってしまいました。
私の友人4人がツアーのフリーの一日をマニーに案内してもらって、このアパートで
夕飯をご馳走してもらったこともありました。家にお客が来ることを楽しんでいるように
思われます。今回も私たちがお邪魔している間にイタリア人、ポルトガル人、アフリ
カの人という具合に私たち日本人も含めて、なんと国際的な家です。
 その人たちにも「ぜんざい」を夕飯の後に食べてもらうために、持ってきた小豆を
煮ることに。こちらは電熱器での加熱です。火力が弱いように思います。
やたら時間がかかりました。さて、その「ぜんざい」に白玉粉で団子を作り
コーヒーカップで出しました。マニーは日本のことも良く知っていて、
「これは餅か。」と餅という言葉も知っていました。
食べないのはイタリア人です。みんながおいしいと食べているのに一口も食べません。
「やっぱりイタリアは嫌いや。」と日本語のわからないイタリア人に向かって夫が
言っています。イタリアで色々と痛い目に合いましたからね。

 8月9日

 12日の朝には、ブリュッセルからヘルシンキへ飛ぶ予定なので、もう新婚旅行の
コースをたどる旅は全て諦めてベルギーのブリュッセルへ急がなくてはなりません。
スイスのインターラーケンでは、ずらりと並んだベッドだけの宿がまだあるのか
行ってみようと言っていました。その宿の近くで朝食を摂った時に目玉焼きを注文す
ると一人前が卵5個の目玉焼きだったことも忘れられません。フランスのディジョンでは
カタツムリを食べるために、スーツでないと入れてもらえないのではと、
そのためにだけスーツや革靴まで持って行った高級レストランを訪ねることも
諦めました。
ウィーンからブリュッセルまで行くには今日一日中を列車に乗ることになりそうです。
でもイタリアと違って予約を取る必要もなくガラガラの一等車で行くことができます。
まずはオーストリアのウィーンからドイツのフランクフルトへの列車に5時間乗りま
す。ドイツの国境手前でパスポートの提示を求められました。この時もロンドンの
デモ騒ぎのことを知らずにいたので不思議でした。私たち年寄りと障害者が何を
するというのでしょう。何分もパスポートを調べていました。
 フランクフルトに着いてすぐ、駅の地下道で白杖を持つ高校生くらいの男の子を夫が
見つけました。二年前の旅では一人も出会わなかった白杖を持つ人に初めて
出会ったのです。夫に彼と話をしたいと頼み、追いかけました。
でも彼はフランクフルトに住んでいる人なのでしょう。足の速いこと速いこと。
追いつけませんでした。
 フランクフルトからまた列車に乗ること3時間。ベルギーのブリュッセルに着いたのは
夜10時でした。駅に着くと「ウィーンからいっしょでしたね。」と同年齢くらいの方が
声をかけてきました。彼はホテルを予約してあるとのことを聞きましたが、そのまま
別れてしまいました。そのホテルを紹介してもらえば良かったと思ったのは
後の祭りです。でもすぐ近くにホテルはあるようです。夜の町を歩くのはどこの土地
でもあまり安全とはいえません。一番近いホテルに入って決めました。ここで三泊します。
一泊が一部屋朝食なしで80ユーロ(8800円)で少々高いですが、これでも
二人分ですから日本のホテルに比べると高くはないです。ここで三泊することに
なるので、洗濯をして部屋中に干して休みます。

 8月10日

 ユーレールパスがあるので今日はルクセンブルグまで行って帰ってくることに。
ユーレールパスの良いところは、ホテルを連泊し、荷物を置いて日帰りの旅が
できることです。ただ往復することになるので時間はかかります。なにせ乗り放題な
ので乗らないと損だという大阪的な考えが夫には大いにあると思われます。
このベルギーに入って携帯電話の通信が復活しました。どうも国を超える毎にリセッ
トをかけないといけなかったようです。電波にもきっちりと国境が
張り巡らされているのですね。列車の中では、あちこちにメールを送り、また返信が
こんな遠くまでいとも簡単に戻って来ることを今度の旅で大いに楽しみました。
もっともその返信メールの代金もこちら持ちなのは帰ってからの支払いに驚きました。
でも23日間の旅ですから夫と合わせると100件以上は出したでしょう。
三年前に夫が携帯電話を持つ前は一人旅から帰るまで
いったいどこにいるのかさえわからなかった時代からすると旅も変りました。
 ルクセンブルグはベルギーの南にポツンとある、首都もルクセンブルグという小さな
人口50万人の国です。
それでもこの国は一人当たりのgdpが実質で世界一位だそうです。駅の建物は古い
石造りです。gdpが一位とは意外や意外です。その駅前で、この旅で初めて
音声信号機を見つけました。日本のように東西と南北の音を換えて
知らせているような、良い音といえずガタガタと半分壊れているような音です。
この小さな小さなルクセンブルグの国で音声信号機を見つけて嬉しくなりました。
 駅から遠くない所に、アドルフ橋があります。
1973年に夫が一人で来ていて、その景色に驚いた場所らしいのです。
今回またその場所に足を運び、私にそのすごさを一生懸命語ってくれています。
「なんて言うか。地球の割れ目というか。裂けてる感じや。川と違うと思う。」と。
高い所が苦手な私でもやはり見えないということは、その裂け目の上に架けられた
アドルフ橋の上に立っても少しの恐怖も湧いてきません。
駅の方へ戻って、さっきいい焼き鳥の匂いのしていたお店に入ると大きな鶏肉モモを
焼いています。それを食べようと思うのですが、ここはフランス語です。
「おばちゃん、あれちょうだい。」大阪弁で注文。ちゃんと通じます。熱々の焼き鳥を
食べ、駅へ。
 またまた乗らなきゃ損という根性が持ち上がり
「パリ経由でブリュッセルに戻ろう。」と。
「そんなに時間は変わらんと思うよ。」と夫。とりあえずパリまで2時間乗りました。
パリ東駅に着くと、またロンドンのデモ騒ぎの影響でしょう。ものすごい数の
警察官が機関銃に指をかけた状態で見廻っているようです。
 パリからブリュッセルへ戻るには、この東駅からではなくパリノルト駅へ
行かなくてはなりません。地下鉄で行くことができるようですが、乗るほどでないと、
歩くことに。このパリもブリュッセルもローマもルクセンブルグも道路は10cm角の
石を埋め込んだ道ですから道路が全て点字ブロック状態です。日本のようにあちこちに
点字ブロックがあるのは新しい建物のある場所だけということになります。
それにこちらでは車椅子の人はどうしているのかなと思ってしまいます。
そのガタガタ道を歩いて夫の言ったように10分ほどでパリノルト駅に着きました。
1973年、夫が一人旅で入ったというお店に入り、記憶をたどっています。
若くて怖いもの知らずで外国へ初めて旅に出た時です。
もっとも年取った今も怖い者知らずのままかもしれませんが。あの時代はまだ
自分の国の言葉しかみんなが話さなかったような時代です。どうやって
旅行できたのかなと夫は言いますがきっと日本語で通したのかもしれません。
パリノルト駅のアナウンスの前の音が面白いのでボイスレコーダーに録音しました。
帰って調べてみると、「 レ ファ# ソ 」の三音でした。国が違えば、なぜこんな
音をと思う音を使うのですね。そのパリからブリュッセルへはフランスの新幹線で
2時間もかからずに行くことができます。ただ窓口で聞くと、予約料金がえらく
高いのです。夫はすぐ別のルートを聞き予約料金なしで乗ることのできるルートを選
択。時間は倍かかります。ブリュッセルへ戻ったのは夜10時を過ぎていました。
ブリュッセルミディ駅は日本のどこの駅よりも何倍も大きく出口を間違えれば、どこに
出たのかわかりません。それはブリュッセルだけでなくヨーロッパのどの駅もです。
こんなに広く造る意味があるのかなと思ってしまいます。日本は狭い国土だからでし
ょうけれど、日本は合理的に造られていると思いましょう。

 8月11日

 今日はベルギーの世界遺産ブルージュの町へ行きます。列車で1時間半ほどで
行くことができます。町全部が中世の町そのままに残され町の人たちがそのまま生活を
営んでいるという町です。ブルージュの駅前は公園のようになっていて、広くて何もなく
木が並木のように植えられているだけのようです。綱も付けずに犬を散歩させている
婦人が「おはよう。」と声をかけてくれました。大きなダルメシアンを
連れているようです。良く躾られているのか鳴き声も気配もしません。
写真を撮らせてもらって別れました。
 交差点でまた音声信号機を見つけました。今度も良い音とはいえませんが、
歩けの時はカタカタカタと急かされているように速く鳴ります。
 そのあたりからバスが何台も止まっているようです。世界遺産になっている町なので
観光客が集まっているようです。石造りの家が並ぶあたりへ来ると人が多くなって
来ました。町を巡る馬車が何台も客待ちをしています。夫が「馬車に乗ろうか。」と。
料金を聞くと二人で36ユーロ(4000円)です。タイの象に乗った時ほど
高くはないけれど、節約して歩くことにします。
 教会の鐘が午前10時を知らせているようです。しかし長いこと鳴っています。
10時からずいぶんずれてしまっているけれど。
 町を巡る遊覧船の乗り場に出ました。馬車ほど高くありません。馬車に乗らなくて
良かったと思いますが、船にお客を詰め込む状態で乗せていきます。大丈夫かな、
ライフジャケットもなしですよ。
船では英語とフランス語で説明をしています。ベルギーはフランス語圏とドイツ語圏で
仲が悪いらしいです。
ここはフランス語圏で、ドイツ語は使わないのでしょうか。
いくつもの橋の下をくぐります。頭を下げないと通れない所も
あります。このブルージュはギルドとかいう商業で栄えた町です。その昔から病院も
できていたらしいです。船を降りて中庭のあるレストランで昼食にしました。中庭は
親子連れが入れ違いに帰り、私たちだけになりました。通りから離れているので
静かです。でも隣りが石屋さんのようで時々トンテンカンと音がします。裏通りを通
って駅まで帰ることにします。しかしここブルージュもそうですがヨーロッパは広場が
中心にあってその周りに道ができているので、道が京都の碁盤の目のように
まっすぐに通っていません。北へ向かっていると思っていても、いつのまにか東の方へ
歩いているということもしょっちゅうです。夫が太陽がこちらだから北はこっちだと
歩くのは曇っている時には使えません。やはり駅に出るのには時間がかかりました。
 ブリュッセルのホテルまで戻った時にはもう午後4時になっていました。それでも
夫が「ちょっと休憩して、グランプルスとマネケンピスに行くぞ。」と
言っています。やれやれ元気なこと。
 グランプルスへはホテルから歩いて行くことができるというので歩き出しましたが
なかなか行き当たりません。何人かの人に聞きながら行きましたが、もう近いようです。
急に多くの人の声が聞こえ出しました。いままで人にほとんど出会わなかったのに右に
折れたとたん、そこはマネケンピス(小便小僧)の像がある場所にでました。その像は
本当の子供くらいの大きさなので観光客でごった返しています。私はそばに近づくこ
ともできず、以前に写真やテレビで見た画面を思い浮かべました。
このマネケンピス(小便小僧)とデンマークの人魚姫とシンガポールのマーライオンは
陰では「世界三大見なくていい像」と言われているらしいです。そばに来ただけで
いいわと思うことにします。そこからすぐの所に世界遺産のグランプルスがあります。
周りを中世の古い建物で囲まれた広場です。大勢の観光客がいます。みんなが
ベルギーワッフルを道端で食べています。私たちも来たからにはと一つを分けて
食べました。上に生クリームが載っていてベタベタと食べにくいです。
こういう時にウェットティッシュが必需品です。日本のレストランなどで必ず出される
濡れたオシボリもこちらでは全く出ません。今回の旅でも私のカバンには必ず
ウェットティッシュを入れて行動しました。日本人は清潔好きと言われますが、
パンなどを手でちぎって食べるこちらこそ濡れた手ふきを
出すべきだと思います。
 ベンチに隣り合わせに座った若い日本人夫婦にギュデュール協会などへ歩いて
行くことができると聞きました。
ベルギーは夜8時過ぎまでまだまだ明るいので歩いて廻れそうです。ここブリュッセルも
グランプルスの広場だけでなく、あちこちにある広場とともに道があるので道を
間違えること、しきりです。

 8月12日

 今日はブリュッセルからヘルシンキまで飛行機で移動します。日本で
インターネットで買ったeチケットです。このeチケットは航空券の発行がありません。
空港のカウンターでパスポートを見せるだけで、座席券が発行されます。ただ念のた
めに予約番号をプリントして持っていく必要があります。私の分もプリントしてくれ
るように夫に頼みました。
「なんでおまえの分が要るのや。要るわけないやろ。」と言いながらも
プリントしてくれました。私はそれぞれに「ブリュッセルからヘルシンキ」
「ヘルシンキからウィーン」「ベルリンからローマ」といった具合に点字で記しまし
た。これが今回の旅で大いに役に立ちました。夫が物の管理、書類整理の得意でないことは
長いこと夫婦でいればわかります。いざその書類を出すことになっても、きっとすぐ
には出せないだろうと私は読んでいました。墨字を読めない私が点字で目印をつけた
ために、その書類がすぐ取り出せたのです。
そのインターネットで買ったブリュッセル航空のチケットは格安チケットです。
電光掲示板に共同運行の会社名だけが表示される場合があります。
このチケットもそうでした。そのためにプリントした予約表で確認の必要が
あったのです。一時は表示されないので別の空港からの出発なのかと心配しました。
 この空港でフランクフルトの駅に次いで二人目の白杖を持つ人を夫が見つけました。
この方とも言葉を交わしたいと思いましたが、やはり速足で話をすることが
できませんでした。この方はスーツ姿の男性で奥様かガイドの方とごいっしょでした。
 私たちのチケットは預けられる荷物が一人一個、食事は有料など、格安チケットには
それなりのわけがあるなと思います。荷物が一人一個というのをその場で
知ったものですから、預けられなくなったリュックに
入っていたナイフをゴミ箱に棄てることになってしまいました。
ランチにと出された有料のサンドウィッチは少々高めでしたが、おいしい
サンドウィッチでした。
 このフライトは3時間で一人165ユーロ(18000円)でした。
 着いたヘルシンキの空港から鉄道駅まではバスで30分で行くことができます。
このバスですが歩道とバスのステップの段差がなくなるようにバスが右へ傾くのです。
そんなおかしいことと思われるでしょう。でも本当です。
運転手さんに夫が確認しました。
 フィンランド南の端ヘルシンキから北へ向かう列車に乗ります。オウルという
町まで500kmを特急で5時間です。北欧では列車の席は空いていると思うのに予約が
要ります。窓口で4時30分発の予約を取ろうとすると窓口の少々お年を召した女性が
「その特急の予約はもうありません。」と言うらしいのです。夫は
「ここはイタリアと違うぞ。そんなわけがない。」と今度は若い女性の窓口へもう一度
聞きに行きました。今度は簡単に予約が取ることができました。ここフィンランドでも
一人の言うことを信じてはいけないということでしょうか。またまた夫が血圧を上げて
「あのババアどういうことや。」と怒鳴っています。
そのヘルシンキからオウルまでといわず、フィンランド全土が森と湖の景色が続きます。
 私がフィンランドへ来たのは1991年の夏と1994年の冬です。
その時はまだ見えていたのでフィンランドの景色を良く覚えています。どこへ行っても
退屈なほど森と湖の景色が続くのです。フィンランドは日本と国土の面積がそんなに
変わりません。森が国土に占める割合が世界一高いのは、もちろんフィンランドですが、
日本が二位です。これは私も最近ラジオを聴いていて知りました。フィンランドの一
位はわかりますが、日本の二位は、ほんとうかなと思ってしまいます。
 今日お邪魔するオウル市に住むぺっテリー・ハマライネンは妹の
スザンナ・ハマライネンと2006年の6月に我が家に来ました。その前に私たち家
族が 1994年の冬にオーロラを見るべく、お父さんであるエサ・ハマライネンのお宅に
お邪魔しました。そのきっかけになったのは1991年の夏に家族でヨーロッパを
旅した時のことです。たまたま降り立ったトルニーヨの駅で次の列車の時刻まで5時間
あったので町をブラブラ散歩していた時のことです。
フィンランドの小学校は8月初めにはもう授業が始まっていました。覗いた立派な
グラウンドで体育の授業が行なわれていました。
 そこで教えていたのが教師であるエサ・ハマライネンです。
その時に住所を知らせあったことから、お互いのことや日本のことを教えるといった
手紙の交換が始まったのです。最近でこそメールでやりとりしていますが、
知り合った時はまだ手紙の時代です。
 1994年にフィンランドへ入った時はクリスマスが終わった後でしたが、
ヘルシンキの町はまだイルミネーションがきれいだったのを覚えています。
でもそれぞれの家の飾りつけは質素なものでした。
今の日本の12月にフィンランドの人が来たら驚くでしょうね。
 サンタクロースが住むというロバニエミにも行きましたが、今の日本は
そこよりも派手かもしれませんよ。
 トルニーヨの町はフィンランドとスウェーデンとの国境の町です。トルニーヨ川を
越えるとスウェーデンです。スカンジナビア半島の付け根で、ボスニア湾に面した
町です。トルニーヨから北東へ車で3時間ほど行った北極圏にあるサラという町に
エサ・ハマライネンのお父さんが住んでいます。サンタクロースが住むという
ロバニエミはサラへ行く途中の北極圏の入り口にあります。
 1994年冬、 サラでスキー場に近いコテージを一軒借りました。スキーをしな
がらオーロラが出るのを待つことにしたのです。サラの町はなにせ北極圏ですから冬
は明るい時間が短く午後2時にはもう暗くなってしまいます。それに明るい昼でも温度は
氷点下です。高校生の娘と中学生の息子はスキーを楽しむどころではないようでした。
日没が早いので自分たちの泊まっているコテージを暗くなってから探すのも大変です。
ある時、留守番をしていた私はあまりに帰りが遅いのですごく心配しました。
同じようなコテージがポツンポツンとあるだけで、たいした明かりもなく、あわや
遭難かと夫も思ったと後になって言いました。
その北極圏のサラにいる三日間で結局オーロラを見ることができませんでした。
明日はもうヘルシンキまで戻るという夜、北極圏ではないトルニーヨの町で、
出ましたオーロラが。晴れて良く冷えた夜に出るというオーロラを
エサ・ハマライネンの家の庭で、私一人の時に出ました。
夫たちは息子のアンティーのアイスホッケーを見に行っていました。オーロラが
消えないといいけどと言っていた時に夫たちが帰ってきました。
すぐエサ・ハマライネンは私たちを車に乗せ、町の明かりがない所まで連れて
行ってくれました。
 今も覚えていますが、その日のオーロラは黄緑色で濃淡があり、ゆらゆらと
動きました。フィンランド語でオーロラのことを「レボントゥーレット」と言って
「狐のしっぽ」と言う意味だそうです。その名の通り、狐のしっぽがフワフワと
揺れるようです。20分から30分は消えるまで見ていたでしょうか。
氷点下20℃くらいだったと思いますが、見ている間の冷えること冷えること。
 でも二度と見ることのないオーロラですから消えるまで見ていました。私こそ二度と
見ることができなくなりました。

 8月13日

 昨日はここオウルに着いたのも遅く、すぐ休ませて頂きましたが、今日は
ペッテリー・ハマライネンと日本には来ていない奥さんのエイヤ・ハマライネンが
オウルの町を案内してくれることになっています。ヘルシンキから北へ500kmも
来ましたから、8月といっても上着を羽織らないと少し肌寒い感じです。
でもフィンランドの人は、これで温かいのか半袖のTシャツを着ている人もいます。
オウルはボスニア湾に面したフィンランドでヘルシンキの次に人口の多い町です。
それでもフィンランド全体で人口が500万人しかいないわけですから、町の中心へ
連れて行かれても人でごった返すなどとは程遠い状態です。スーパーマーケットの
中に日本人が経営しているおすし屋さんがあるというので、その人を訪ねてみると
ちょうど入れ違いに家へ帰られたようでした。日本人でない経営のおすし屋さんが
世界には多いのに、こんな北の果てで日本人がいるとは。ここのおすしはおいしいと、
ペッテリー。日本に来てからおすしのファンだそうです。
 そこから教会へ行くとちょうど結婚式を挙げた花嫁花婿が教会の外へ出て来た
ところでした。花嫁花婿に向けてシャボン玉を飛ばしています。そしてシャンパンの
栓を抜きみんなで乾杯をしています。結婚式にシャボン玉とは。エイヤはラッキーと。
フィンランドでは結婚式に合うと幸せを分けてもらえて縁起が良いと
言われているようです。
 教会のそばにオウル市役所があり、周りにはきれいなお花がいっぱい
植えられているようです。市役所の裏手にエイヤは私を是非連れて行きたいと朝から
言っていた場所に来ました。なるほどです。私の手が届く位置にずらりと10体ほどの
小さなブロンズ像が並んでいるのです。エイヤは私にこれを触らせたかったのです。
それらのブロンズ像はオウル市のために尽くした人たちの像です。
ちょうど目の高さに50cmくらいの像が並んでいます。一人は大きな鮭をたくさん
捕った漁師を鮭を手に持った形で造られた像、一人は子供を十人も産んだ女性の像、
一人は多くの子供を教えた立派な教師の像といった具合にエイヤは説明と共に私の手を
そこへ持っていきます。視覚障害者のために造ったのかしらと思うほど触るのにちょ
うど良い大きさと位置です。なんと良くできていること。それにオウル市に尽くした
政治家の像でないところが感動です。
 お昼は私たちをトルニーヨから迎えに来てくれたエサ・ハマライネンと
エルミ・ハマライネン夫婦とペッテリー夫婦、その子供のミンチュ、ラッシーと
いっしょにオウルで有名なレストランへ。そこは昔の倉庫というか蔵のような頑丈な
木で造られた建物をレストランとして使っている重厚な感じのするお店です。
ここは海のそばなので私たちはもちろん魚料理を注文。
おいしいソースのかかった魚が30cmはあるかと思うほどの大きさで、
お頭つきで出されました。私はカバンから箸箱を
取り出して、とてもおいしく頂きました。これがナイフとフォークでは
悪戦苦闘したでしょう。このレストランへペッテリーは仕事上の外国からのお客も
連れてくるようです。ここの料理は誰もがおいしいと言うからだそうです。でも日本に
5年前に来たペッテリーは日本ではどこで何を食べてもおいしかったと言い、イタリアの
イタリア料理よりも日本のイタリアレストランの方がおいしかったとも言いました。
 そのペッテリーの家はオウルの駅から車で10分ほどの所にある平屋建ての
一軒屋です。フィンランドでは一軒屋といえばほとんどが平屋建ての大きな家です。
ペッテリーはまだ35歳ですが300坪ほどの敷地に広い庭付きの
一軒屋が住まいです。それぞれの家に門や塀などがなく道からすぐ前庭があるので道は
道幅以上に広がりを感じます。そして300坪の敷地を持っているのは、決して
広い方ではないと聞き、日本との違いのなんと大きいこと。
しかし私の家の方が広い場所があります。
それは風呂場です。オーストリアもドイツもそうであるようにバスタブにつかるという
習慣がないためか、風呂場というよりシャワー室なので、どの家も広い家なのに
シャワー室は決まって半畳なのです。

 8月14日

 昨日オウルから車で3時間ほどでトルニーヨに着きました。エサ・ハマライネンの
家も敷地300坪に平屋建ての一軒やです。子供たちがこの家を離れ
夫婦二人暮らしなので空き部屋があり私たちに荷物を置く部屋とベッドルームの二部
屋を使っていいと言いました。
 朝ご飯はお粥です。うれしいと思ったけれど、ここはフィンランドです。
お米から炊くには違いないのですが、牛乳で炊いてそこにブルーベリージャムを混ぜて
食べるのです。これをお粥と思うから少々抵抗があるのでお菓子と思えば
食べられないことはありません。この米から作るお粥を「ポーリー」と言い
フィンランドの東側のカレリア地方の食文化なのだそうです。それと日本では今でこそ
米粉で作ったパンが売られていますが、フィンランドでは昔から米粉で作ったパンも
食べているようです。
そのカレリア地方は今では戦後ロシアの国土になってしまっています。そもそも
フィンランドは私たち日本人と同じ中央アジアのフン族の末裔だと言われているので
お米を食べる文化が受け継がれているのかもしれないですね。
フィンランドはフン族の国ということからつけられた国名とも聞きました。
それに赤ん坊の時、日本人と同じようにフィンランド人にも
モウコハンの青あざがあるらしいです。
 朝食の後すぐ近くの公園を散歩しました。ここトルニーヨはフィンランドでも
北の方ですから夏が短く、その分8月にはいろいろな花が一斉に咲きます。
広い公園中が花、花、花で咲き乱れているようです。それぞれの花に名札が付けてあ
り、日本の花も植えられていました。ハーブのコーナーでエサ・ハマライネンが
少しちぎって私に匂いを嗅がせました。タイムは私にもすぐわかりました。
 午後からはボスニア湾に面したスウェーデンのハーパランダのお祭りに行きます。
岸に椅子が並べられています。帆船が港に着くところから、お祭りの劇が
始まっています。この町ができた頃の話のようで、衣装もその時代のようです。
時々みんなが大きな声で笑います。スウェーデン語ですから私も夫も笑えませんが
舞台では裁判の様子が演じられているようです。時々、木づちでコンコンと叩き
「静かに。」と言っているのがわかります。
 そのスウェーデン語とフィンランド語は良く似ているらしいですが、フィンランド
語は日本語と同じ発音の言葉がたくさんあるようです。まずエサ・ハマライネンの「
エサ」は日本語での餌だし、フィンランド語の「ハナ」は蛇口から出る水、「サンポ
」は銀行などそして我が家の娘のユキという名前やマリコという名前などは男の子に
つける名前なのだそうです。
 海に面したハーパランダから北へ10kmほどのクックラへ来ました。
フィンランドとの国境になっているトルニーヨ川のほとりです。雪解け水の
ためでしょうか、水がゴーゴーと音をたてて流れています。その川に架けられた橋の
上から長い竿の先に網をつけ肴を掬っている人がいます。そこでエサ・ハマライネンが
30cmほどの魚を20匹も買いました。
明日はお友達を呼んでパーティーのようです。
 家に帰るとエサ・ハマライネンがさっそくその魚の掃除を始めました。
この家ではご主人の方がまめに動いています。奥さんのエルミが少し体が弱いことも
あるのでしょうけれど。庭に新聞紙を広げ、ウロコと内臓を取っています。こちらでも
内臓の卵巣は食べるのか、別に取っているようです。
日本だと卵とじにするところですが。どんな料理にするのかを聞きのがしました。
 この日の夕食は魚ではなくトナカイのシチュウでした。
日本で食べることはないですが、私はこれが二度目です。1994年にこのお宅に
お邪魔した時にもご馳走になりました。これがトナカイの肉だと言われないと
わかりませんが、牛肉の方がおいしいように思います。
やはりここはフィンランドですからトナカイの肉は良く食べられているようです。

 8月15日

 今日もトルニーヨの町やスウェーデンの方へも連れて行ってくれるようです。
朝からは車で森へ行きます。町から少し走るだけで森や湖に出ます。
 今日、足を踏み入れた森にはきちんと日本の尾瀬のように木で造られた
遊歩道があります。それは車椅子でも行くことのできるように平らにそして車輪が
落ちることのないように側面には10cmほどの柵がしてありました。
私も白杖でそれを辿って一人で歩くこともできました。
 高台に上って遠くを見ると風力発電の羽が見えるようです。
 しばらく行くと休憩所があり、エサ・ハマライネンが
火をおこしソーセージを焼いて私たちに食べさせてくれました。
今この森には私たちしかいないのでしょう。パチパチと木の燃える音だけです。
寒い地方なので鳥の鳴き声もあまりしません。
 この森の中でもエサ・ハマライネンの家でも本当に静かです。昨夜もその前の夜も
ベッドに入って何の音もしないというのは不思議なくらいです。
日本にいる時、静かといっても何かしらの音はあるものですが。
その森から車を走らせ、今度は近代的なスーパーマーケットへ。ここには時計が二つ
架けられています。時計の針は12時20分と1時20分です。ここは国境の町です。
時差が1時間あるのでフィンランド時刻とスウェーデン時刻が表示されて
いるのです。車でも歩いてでも国境を越えるたびに時刻が変ります。
 スーパーマーケットの近くの図書館へエサ・ハマライネンは借りていた本を返すた
めに寄りました。日本の漫画は「manga」という表示でたくさん並べられています。
ドラエモンはもちろんですが、私たちが良く知らない漫画までがズラリと
並べられています。図書館の人に
「点字図書はありますか。」と聞くと、「点字図書館にあります。」と。
 今度はトルニーヨ川を越えてスウェーデンのハーパランダに入ります。
駅前にあるハーパランダシュタットホテルを訪ねます。
そのホテルは戦前からあるホテルです。スウェーデンが中立の立場を取っていたために、
ロシアや日本、フランス、ドイツといった具合にさまざまな国のスパイが
利用したのだそうです。分厚い木の玄関扉は昔のまま使われているようです。
その取っ手を私も握りました。あのレーニンも握ったとエサ ハマライネンが言うの
で、また取ってを握り直しました。長い歴史が手から伝わってくるような気さえします。
中に入ると天井は高く私にもその広さと重厚な雰囲気が感じられます。
古い建物が大事にされ、昔のままに使われているとは驚きです。
 古い建物ばかりではなく新しい建物もどんどん造られています。そのホテルのそばに
プールやスポーツ設備の整った建物がありました。入ってみましたが利用者が
全然いません。この8月というのにプールにも人がいません。
その施設の障害者トイレでとてもおもしろい便器を見つけました。壁から便器が
突き出ていて、それが蓋をすると卵の形をしているのです。
こう言っただけではわからないかもしれませんね。ハーパランダへ
行って見てください。
 教会にも寄りました。その教会のそばの広い墓地に行って驚きました。
それぞれの墓石の前には真っ赤なバラが植えられているようです。今日8月15日、
それらの真っ赤なバラが全部満開なのだと夫が言います。
「墓地できれいというのは当てはまらんけど、ものすごくきれいや。」と言うのです。
真っ赤なバラを墓地に植えるのは日本人の感覚にはないですね。でも
私もきれいだろうと想像します。
 そこからフィンランドの方へ戻り、昨日スウェーデン側から見たトルニーヨ川を
フィンランド側から、またゴーゴーと流れる川を見て帰ることに。
 夕方に来られる友人とは別の方の家にも寄って帰ることに。その家に来て
ビックリです。エサ・ハマライネンの300坪の家が広くはないと言っていたのが
わかりました。1000坪くらいあるかもしれません。その家も親から代々
受け継いだというわけではないのです。エサ・ハマライネンも実家はトルニーヨより
もっと北のサラという町です。
 家に帰るとエサ・ハマライネンが今晩のお客に出すために魚のスモークを
始めました。レンガ造りで人も入れる大きなスモーク小屋です。私たちは今晩の
パーティーのデザートにぜんざいを炊きます。ここフィンランドも電熱器での加熱で
すが今日のはいい具合に仕上がりました。今日のお客様は私たちも知っています。
リトバ・ルーマン夫婦とタウノ・ヒバリエン夫婦です。1994年にはリトバの家にも
お邪魔して夕飯をご馳走になりました。
 夕方6時、お客様たちが来られました。17年ぶりの再会です。みんな小太りになり、
髪の毛も薄くなっているようです。エサ・ハマライネンの作ったスモークされた魚を
頂きます。スモークするとなぜかおいしくなりますよね。スモークするのは何時間も
かかるので、こうしたパーティーの時にご馳走として出されるようです。
 夕方といってもまだまだ明るいのですが外の庭での食事はだんだん
寒くなってきました。リトバの息子さんは日系三世の日本人のお嫁さんをもらって、
今はブラジルに住んでいるとか。そしてまごは二人いる。タウノ夫婦の夫婦にも孫が
いるという話になって、孫のいない私が思わず
「いいなあ!」と言った途端に、全員からドッと笑いが起こったのです。私が言った
のは日本語ですよ。それなのに全員がドッと笑ったのです。
「どうしてわかったの?」と聞くと、私の言い方でわかったそうです。
 デザートに出したぜんざいをリトバは写真に撮り、自分の家に帰ってすぐツイッタ
ーで「日本のぜんざいなるものを食べた。」と載せたそうです。

 8月16日

 今日はボーイスカウトの宿泊訓練をする建物や小学校を訪ねます。車であちこち
案内してくれるわけですから、夫はイタリアの時のようにあれこれ
考えなくて良いわけで、気も緩みっぱなしです。ボーイスカウトの訓練用宿泊設備は
誰もいません。フィンランドで8月にはもう学校が始まっているためでしょう。
エサ・ハマライネンが冗談で
「あなたたちがいつ来ても泊まれるよ。」と笑いました。
 そこからエサ・ハマライネンと出会うことになったグラウンドへ。日本の学校の
運動場とは違って、まるで競技場です。これを小学生の体育の授業で使うのです。
エサ・ハマライネンが昨年まで校長先生として勤務していた小学校を訪ねます。
もう午後3時なので子供たちはいません。職員室に入ると7:8人ほどの先生たちが
前任の校長先生の突然の訪問にも
「ヤーヤー。」と友達でも来た様に歓迎。職員室といっても日本のようにせせこまし
く、本や書類の山に囲まれていることもなく、リビングのようと夫が言います。私に
も広くゆったりしていると感じます。
 この学校に一人の視覚障害者、ビレ・ケンガス君がいるというので是非会いたいと
思っていました。もう帰った後なので彼の椅子に座りました。
机には点字タイプライターが置かれています。フィンランドでは障害者一人一人に
担任教師が付くのだそうです。先ほど訪ねたグラウンドや広々とした校舎など教育に
力を入れているのが良くわかります。確かフィンランドは子供の学力が世界一
ですよね。このビレ・ケンガス君のためにだけ作られた点字教科書やでこぼこに
作られた地図などを触らせて頂きました。点字教科書はフィンランド語ですから全く
読めませんが、フィンランドの地図は触って私にも感じとれました。
エサ・ハマライネンは、「ビレ・ケンガス君は歌がとてもうまいんだ。」としきりに
褒めていました。
  今日は夜10時の夜行でトルニーヨを離れることになるので家に戻ります。
 ここを出る前に近くに住むという日本人を訪ねたいと、エサ・ハマライネンに
頼みました。ほんとうに歩いて5分ほどの所にその方の家はありました。
康子さんと言ってトルニーヨで子供たちに音楽を教えていて、フィンランドの人と
結婚しています。家に着くと夫婦で車を洗っていました。
話を聞くと私と同じ大阪府泉佐野市の
出身です。こんなフィンランドの北の果てに同郷の人がすんでいるとは。
泉佐野市へは毎年帰っているらしいです。
「泉佐野は関西空港からすぐですけど、トルニーヨからヘルシンキの空港まで
出るのが大変なんですよ。」と。その子供さんは「まりこ」という名前の女の子です
が、「フィンランドでは男の子の名前なんですよ。」と笑いました。
 夜10時の夜行といってもトルニーヨから出るわけではありません。
ケミという駅から乗らなくてはなりません。もちろんケミまで車で送ってくれる
楽々コースです。
奥さんのエルミとは家の玄関で別れます。フィンランド語の
「キートス。キートス。」と、ありがとうを繰り返しながら涙がこぼれます。
もう会うことがないかもと思うと、よけい寂しくなります。
 ケミの駅には1991年の時に乗り換えで降りた気がします。もう夜なので
駅員さんもいない小さな駅です。夜行列車は寝台車なので予約の必要がありますが、
列車に乗ってから取るしかありません。列車のドアからすぐ近くの二段ベッドの部屋
が取れました。これで朝8時のヘルシンキ着までゆっくり休めます。部屋には
鍵もかけられ、洗面台もあります。そして、このベッドの寝心地がいたって良いので
す。列車ですからガタガタと揺れるだろうと思っていましたが、意外にもあまり揺れ
ずにぐっすり眠れました。
 子供たちと20年ほど前に山形へ特急日本海で行った時に、こんなには眠れなかっ
たと思うのですが。

 8月17日

 ヘルシンキの駅に着くと駅の構内で大粒のブルーベリーが安く売られています。
さっそく買って食べます。フィンランドではいろいろな種類のベリーが取れますが、
私たちはやはりブルーベリーが食べ慣れています。エサ・ハマライネンの家では
ブラックベリー、クランベリー、ブルーベリーといろいろなベリーを食べさせて
頂きましたが、日本の十分の一くらいの値段で売られています。
それに森に入れば野生でたくさん生っています。
 1994年12月に家族でヘルシンキに着いたのはドイツのリューベックから船で
着きました。町はどこを歩いてもアイスバーン状態で教会の前の坂道を歩くのが
大変だったのを覚えています。そのリューベックからヘルシンキへの船旅で、
おもしろい事件がありました。一晩、船が走った次の朝、荷物をまとめて出口に
急いでいると、他の乗客は落ち着いています。
誰も準備して降りようとしていないのです。夫が娘に
「何時に着くのか聞いて来い。」と命令しました。しぶしぶ聞きに行った娘が
「明日着く。トゥモローって言ってる。」と。そうです。
私たちの感覚では一泊二日でヘルシンキの港に着くと思い込んでいたのです。
この船は二泊三日のコースだったのです。
荷物をまた持って部屋へ戻る時の格好悪いこと。こんなこともツアーにはない体験です。
 今日はヘルシンキからウィーンへ飛行機で飛びます。時間があるので、忘れられない
ヘルシンキ港へ行ってみることにします。ヘルシンキの駅前でルクセンブルグ、
ブルージュに続いてまた音声信号機を見つけ、ボイスレコーダーに入れました。そこから
港までは近いはずですが、やはり夫は道を間違えました。ほんとにこれで良く外国を
旅しているなあと、感心します。連れて行ってもらっている立場なので、言う通りに
歩いていますが。治安の悪い国だったら裏道に入ってしまうのは危険です。
実際に夫は南米のウルグアイで強盗にあっています。
 ヘルシンキからウィーンへはドイツのデュッセルドルフ経由のベルリン航空
eチケットです。デュッセルドルフへは2時間半のフライトです。乗ってすぐ
キャビンアテンダントの方が「英語ですか?ドイツ語ですか?」と点字の緊急時の
説明書を持って来ました。アルファベットの点字はまだまだ苦手ですが、
とりあえず英語バージョンの説明書をもらうことにしました。
大阪を出てからもう半月になります。久しく点字を読んでいません。
点字を習い始めてもうすぐ五年になりますが、点字の先生には毎日
少しずつでも読まないと読めなくなりますよと注意されていました。一応、松本清張の
短編小説を一冊リュックに入れてきましたが、日本を出てから全く読んでいません。
この緊急時説明書を読み出してもアルファベットの英語点字です。
なかなか読めません。飛行機に乗っていた2時間半の間、ずっと読んでいました。
そして降りる時にその点字説明書を「私にください。」と言ったのですが
「次の乗客に使います。」と断られました。こっそりカバンに入れれば良かったかな。
 デュッセルドルフからウィーンへのフライトはこれも2時間半は乗ったでしょうか、
点字説明書は出ませんでした。デュッセルドルフ経由の不便さがあるため、
このeチケットは155ユーロ(17000円)と超格安です。
 ウィーンの空港からマニーのアパートへは地下鉄ですぐです。この地下鉄は珍しく
乗り降りのドアに段差や階段がありません。
かと言って列車の乗り降りは気を抜いてはいけません。
 今晩からまた三日間マニーのお宅に泊めて頂きます。十日前に会ったポルトガルの
人もイタリア人もまだいました。

 8月18日

 今日はオーストリアのウィーンからハンガリーのブダペストへ日帰りの旅です。
オーストリアがヨーロッパの真ん中にあり、東にハンガリー、その北がスロバキア、
北にはチェコ、北から西と一番長く接しているのがドイツ、西にスイス、南にドイツの
次に長く接しているイタリア、そしてスロベニアという具合にオーストリアはたくさ
んの国と国境をもっています。
ブダペストまでは3時間で行くことができます。
 1991年の家族旅行の時にビザを持っていなかったためにハンガリーに入ってす
ぐの駅で降ろされ、行くことのできなかった国です。今はパスポートの提示もないま
ま国境を越えることができます。
ただ通貨はユーロではなくハンガリーはフォリントです。
 そのハンガリーへ入る手前で、すごい数の風力発電の羽が並んでいると夫が
驚きました。10基や20基ではなく何百基も並んでいるらしいのです。
どの国も発電には苦労しています。周りに人の住んでいる様子はないようですが、
風力発電は低周波が出て人が近くに住むことができないですよね。
日本にはこれだけの風力発電を立てる地面はないでしょう。
 そこからしばらく列車が走ると、駅に止まりました。1991年、私たちが降ろされた
ハンガリーに入ってすぐの駅、ヘギエシャロムです。コンパートメントから出て駅の
写真を撮っている人がいます。
その人に「ヘギエシャロムの駅ですか。」と尋ねました。
 私たちのコンパートメントにその方も入って話が始まりました。
聞けばその方はハンガリー人でタイからの旅行の帰りだとか。私たちもタイの旅から
ヨーロッパへ来ましたなどと話しました。
あつかましい夫は今から家に帰るという人のお宅にお邪魔する契約をまとめました。
その方のお宅はブダペスト駅の一つ手前で降りるようです。駅前に車が止めてあり、
その車に乗せて頂きます。車の窓には駐車違反の紙が張られているようでした。
でも「こんなのは気にしなくていいんだ。」と紙をくるくる丸めました。いいのかな
。  まずは事務所へ行くと言うので、いっしょに行きました。長いこと旅行で
留守にしていたので、メールの確認や電話をかけています。
「コピー機械のリースの仕事かな。」と夫が言っています。
若い時はバレーボールの選手をしていたようです。
「自分は行けなかった東京オリンピックに友人は行ったんだ。」と。
「フィンランドに五年間コーチとして行っていた。」とも。
 事務所からお宅へお邪魔することになって
「私の家は階段が多いけれど、奥さんは大丈夫かな。」と。すぐさま夫は
「大丈夫。大丈夫です。家内はどこでも歩けますよ。」と言いました。
そしてお邪魔することになりましたが、普通のお宅ではないことが行って
わかりました。階段が多いといっても並の多さではありません。ブダペスト市内を
一望できる丘の上に建っている豪邸です。家の門扉がガラガラと自動で開きました。
そこから階段の始まりです。その上、家が丘の上に建っているものですから、各部屋が
階段で繋がっているのです。ブダペストを一望できるテラスへはゴツゴツした石の
螺旋階段です。狭い上に手すりもありません。大丈夫かと言ったはずです。
大丈夫ではありません。狭い石の螺旋階段を夫と、どうして上がったか、
どうして下りたか、怖かったことしか覚えていません。
もちろんテラスに上がったところで私には見えないのですが。
夫は「ワーッ。ワーッ。」と目の前の景色に感嘆の声を上げていました。
そのお宅で飼われている4匹の犬はご主人が帰るやいなや
「ワンワンキャンキャン。」鳴きっぱなしです。
フカフカのソファーに座らせてもらっていると、コーヒーではなく赤ワインの栓が
抜かれました。これから車でブダペストを案内するよと言ってくれているのに、ご自
分も飲んでいます。あまり飲まないでほしいなとドキドキです。
ブダペストは「ドナウの真珠」と言われる、きれいな町です。車でグルッと
廻りきれるくらいの、そんなに大きな町ではないようです。
ここは議事堂、ここは教会という具合に連れて行ってくれました。
でも車から下りないので私は足で見ることも手で見ることもなく
ブダペストを去ることになりました。まあ時間の余裕があったわけではないので、市
内を全部廻ってやろうと思われたのでしょうね。
 しかし昨日は北の国フィンランドにいたためでしょうか、ハンガリーはとても暑く
感じます。そんな時、夫が温度表示の電光掲示板を見つけました。なんと39℃です。
暑いと思っていましたが、よけい暑くなりました。道理で暑いはずですが、湿度が
それほどないのでしょう汗がそんなに出ません。
帰りの列車のホームまで送って頂きました。
ハンガリーのお金を持っていない私たちにサンドウィッチを買ってくれ、
さっき栓を抜いたワインも持たせてくれました。
 夫はどの旅でもラッキーなことに親切な人に巡り会っています。
 新婚旅行で私とアテネで落ち合う前に行ったルーマニアでも全く道を聞いただけの人の
お宅に泊めて頂きました。その後の家族旅行でも、また四人で泊めて
頂くことになりました。
我が家も狭いながらも色々な国の方たちに宿を提供しています。一番最初は
ブルガリアから、中国、フィンランド、そしてこれからお邪魔するドイツの家族は三
度、我が家で日本の生活を楽しんだようでした。
今日、知り合ったハンガリー人のイストバン・ナギュにも
「スモールハウスですが日本に来られたら寄ってください。」と言いました。
バレーボールをしていた方なので、背が高く、本当に来られたら我が家の低い鴨居や
狭い家に驚くでしょうね。

 8月19日

 今日はチェコスロバキアが分かれてチェコとスロバキアの国になった、スロバキアの
ブラチスラバへ行きます。ハンガリーのブダペストに流れていたドナウ川の上流に
なります。ブラチスラバへは私たちの持っているユーレールパスでは行くことが
できません。ハンガリーはユーレールパスが使えて、通貨はユーロではないのと反対
で、スロバキアはユーレールパスが使えなくて、通貨はユーロです。ほんとに
色々です。ウィーンがオーストリアの東の端にあるのでブラチスラバまでは2時間も
かかりません。朝、ヒリーが「ハインブルグにも寄って来るといい。」と言いました。
オーストリアの東の端からスロバキアに入ってすぐの所らしいです。
「ローマ時代の遺跡があって良い町よ。」とも言いました。
帰り道にあるようなので寄ることにします。
 ブラチスラバはドナウ川を行き来する船で来ることができるので、たくさんの
観光客で町は賑やかです。ドイツからの人も多いのかドイツ語が飛び交っています。
中国の人もいます。でも日本人には出会いません。それなのに日本の国旗が
揚げられている建物がありました。日本を紹介する催しのようです。
ドナウの川岸まで行くことにして坂の上にあるお城には上がりません。
ブラチスラバもブダペストと同じように古い建物があふれています。
衛兵の立つ官邸と思われる建物も古い石造りです。
その前には大きな噴水が大きな水音をたてています。町を市電も走っています。
ドナウの川岸まで歩いてから帰ることにします。駅への帰り道でまた音声信号機を
見つけました。これは今にも壊れそうなガタガタという音です。
案の定ボイスレコーダーに取っている間に赤と青の音がさっきとは逆になりました。
スロバキアの方、お願いですから修理をきちんとしてくださいませ。
 ブラチスラバからヒリーお勧めのハインブルグでお昼にしようと列車に乗りました。
駅の窓口で聞いた列車に乗りました。車内で車掌さんに
「ハインブルグの駅はまだですか。」と聞くと
「この列車は止まりませんよ。」とのこと。またまた一人の人にだけ聞いて行動しては
いけないということが起こりました。
 さて、どうしたものか。夫は次の駅で降りてみようかと。そして降りた駅は
駅前といっても何もない駅です。遥か向こうに風力発電の羽が見えるだけのようです。
お腹も空いてきたというのに。駅員さんに
「ハインブルグはどうして行けば良いですか。」と聞きました。長いことパソコンの
キーを叩いています。どういうわけなのでしょう。わかりました。ハインブルグは
この駅からスロバキアの方に戻って、更にバスで行かないといけないようです。
ヒリー、この沿線にあると思うじゃないですか。簡単に言ってくれるものだから。
せっかく駅員さんに調べて頂きましたが、もう行くのは諦めます。次の列車で
ウィーンへ戻ります。今日は夫の誕生日なのでヒリーが夕方にご馳走を作ってくれ、
みんなでお誕生日会をしてくれるらしいのです。夕方6時には帰らなくてはなりませ
ん。 ウィーンへ戻る列車で、私たちが昼食抜きというのに、前の座席のおばあさんが
サンドウィッチを「ムシャムシャパクパク」と食べています。
「一つください。」と言いました。日本語でね。もちろんおばあさんは日本語が
わからないので「ムシャムシャパクパク。」とまた食べています。
 ヒリーにはウィンナシュニッツェルをご馳走してくれるようにお願いしてあります。
ウィーンに着きましたが、もう3時を過ぎているので、ここでお腹いっぱい食べるわ
けにいかないので、一つのサンドウィッチを分けて食べるだけで夕食に
備えます。マニー・ロンバートの家は第三の男の映画で有名な遊園地プラターの
近くです。映画に出てくる観覧車に乗ってからアパートへ帰ることにします。
その観覧車に1991年の家族旅行でも乗りました。第三の男の映画を
知らない人でも、映画の中で流れるチターの曲は誰でも知っている曲ですよね。
そして観覧車は、その時のまま動かされています。ウィーンの町が
もっと良く見えるように更に大きな観覧車も動かされてはいます。でも古い観覧車の
方が人気があるようで行列ができています。私も並んでいると、見えない者が上に
上がって何を見るのかという感じで私を見ているようです。
「二十年前に上がって、見ましたよ。」
その見えない私も同じ料金なのはちょっと納得いきませんが、この観覧車だけは他の
乗り物より、えらく高いです。8ユーロ(880円)で他の乗り物は3ユーロ
(330円)から3.5ユーロ(385円)です。観覧車に乗るためにだけ
来ている私たちのような人も多いようです。遊園地プラターからマニーのアパートへ
駅の方から出ないで裏から出てアパートに帰ります。そこは第三の男の映画を
観たことのある人なら絶対に覚えている最後のシーン。主演の男が歩いて静かに去って
行くシーン。そのシーンの場所がここにあります。高い木の並木道をコツコツと
靴の音をさせながら歩くシーン。まだそのままのようです。
夫に「写真。写真」と言いました。
 夕方5時、預かっていた鍵でアパートに入ると知らないお兄さんがトイレの工事を
しています。ヒリーはと部屋を夫が見るとまだお昼ねの真っ最中です。
今夜のパーティーは大丈夫でしょうか。それにしてもガンガン音楽をかけ工事を
しているのにお昼寝とは。そもそもマニーが
「ヒリーは良く寝るんだよ。」と言っていました。マニーは2mもある巨人ですが
ヒリーは二人分はあるかもしれない巨体です。良く食べ、良く眠るからでしょうね。
 しばらくするとマニーも帰ってきました。トイレは大丈夫かと聞いてくれました。
一階上の家のトイレを借りることになっているからと、言います。しかしなぜ今日が
トイレ工事なのと思ってしまいます。
 一階上はおばあさんの一人暮しです。人懐っこい猫と住んでいます。その猫は
鳴き声を出さずにそばに寄ってきます。私たちは犬党ですからあまりそばに
寄ってほしくありません。
 そのおばあさんもいっしょにお誕生日会の始まりです。ポーランド人、イタリア人も
いっしょです。大きなウィンナシュニッツェルにじゃがいもが添えられています。
スープは電動ミルで塩と胡椒を挽いて自分で味付けするようです。電動ミルは台所道
具の好きな私でも見たことがありません。マニーとヒリーはどういうわけか、いっしょに
食べません。後で知りましたがマニーは白人なのにイスラムなので、この日はまだ
ラマダンの最中で日が暮れるまで食べ物を口にできないのです。日が暮れてやっと
ザッハトルテのケーキをマニーがハッピーバースデーの歌といっしょに
運んできてくれました。ろうそくを吹き消すようにとマニー。
63歳の誕生日会とは思われません。ヒリーはやはり二人前のケーキをペロリと片付
けているようです。
 明日は朝5時半の列車に乗るので勝手に出て行くとマニーに言いました。

 8月20日

 やはりマニーが4時というのに起きてきてくれました。サンドウィッチを作ってく
れています。一階上のおばあさんも起きてトイレを貸してくれました。
どうもお世話になりました。ちゃんと起きてドアを開けて待ってくれていました。
それなのにヒリーは寝たままです。さよならを言うこともなく、アパートを出ました。
 プラターシュテルン駅からウィーン環状線に乗ります。リュックを背負い、もう一
つのカバンを持って乗り込みます。環状線は嫌な列車です。列車とホームが20cm以上も
開いていて列車には階段があり、ボタンを押してドアを開けないといけない上に、
停車時間が短いのです。十日前にウィーンに来た時に転んだ列車です。乗り込む前から
心臓がドキドキしていました。夫も荷物を持っているので私一人で乗ります。手すり

持つことなく、あせって乗ってしまいました。左足を列車に載せたと思ったら、それは
もう一段上の階段でした。バランスを崩し後ろへ体重が移って、右足がホームと
列車の間に落ちました。私の太い足でもかすり傷もなく、スッと落ちたのです。
この時はほんとに死ぬかと思うほどビックリしました。ここで列車が
発車すれば終わりです。夫もあわてたと思いますがホームにいる頑丈そうな男性が重い
私を引き上げてくれました。荷物もホームに降ろして次の列車に乗ることにしました。
列車を待つ間、心臓のドキドキと手の震えは止まりませんでした。次の列車には絶対に
手すりを持たせてくれるように夫に頼みました。列車の乗り降りは何といっても手す
りと白杖です。夫はドアを開けるボタンを押さないといけない、
重い荷物を列車に載せないといけない上に、停車時間の短い間に私に手すりも
持たせないといけないわけですから、ウィーン環状線で私を連れての乗り降りは
大変です。列車に乗ってからも気持ちが落ち着くのには時間がかかりました。
 ウィーンマイドリン駅からドイツへの列車が出ます。ウィーンには西駅、南駅、
マイドリン駅と、行く国によって出る駅が違います。ウィーンへ何度も来ている夫は
充分つかんでいるはずですが、それでもマイドリン駅は以前と違いずいぶん改装されて
いるようですから、ドイツへ行くのかなと、その駅に来てからも言っています。
 そして5時半の列車に乗るために早起きしてここまで来たのに、その列車が
ありません。この日が土曜なので時刻表で調べたのとは別ダイヤのようです。
今日行く所は、旧東ドイツのブランデンブルグ州ピノーという村です。
そこはディーター・アルビヌスの家があります。そのディーター・アルビヌスと奥さ
んのユッタ・アルビヌスと夫が知り合ったのは、1973年に初めてヨーロッパを一人旅
した時です。列車で眠ってしまったために、知らない間に東ベルリンに入って
しまったのです。まだ東西にドイツが分かれていた時代です。共産国の青年大会で
東ベルリンに来ていた二人に
「東ドイツのお金に少し換えてほしい。」と頼んだのでした。その時、お互いの住所を
教え合って文通を始めたのです。大学では一回性の時にドイツ語の単位を落としたの
に、辞書を引き引き、文通のお陰で日常会話ができるようになったのです。なので今日
お邪魔するディーター夫婦とはもう四十年近くの付き合いということになります。
私たちの新婚旅行の時も私とアテネで落ちあ会う前に、ディーターの家を夫は一人で
訪ねています。その時は、まだ共産国の東ドイツの時代です。今でこそ北朝鮮の
拉致のことが世間に知られるようになりましたが、夫はこの時、東ドイツの
ドレスデンで北朝鮮の夫婦とレストランで話をしたと、最近になってから話しました。
まだ北朝鮮が夢の国と思われていた時代です。私との待ち合わせがなければ北朝鮮に
足を踏み入れることになっていたかもしれない怖い話です。
その東ドイツ、ルーマニア、ブルガリアと共産国を廻る旅はストレスいっぱいの旅だ
ったようです。待ち合わせのギリシャに入った時は、ホッとしたと今も言います。
ストレスからの下痢はギリシャからイタリアのポンペイに入っても続いていました。
広大なポンペイの遺跡を歩いて廻るのも途中でギブアップしていました。そのため
私はポンペイの遺跡は三日前にギリシャからイタリアに渡る船で知り会った日本人の
男性と廻りました。私たちより少しだけ年上かなと思うくらいなのに新聞社を退職して
一人旅をしていると言っていました。ブリンディッシュからナポリを離れるまで行動を
共にしました。イタリア語を話せたのでずいぶん助けられました。
今頃、彼はどうしているでしょうか。
 今は一つになったドイツですが、東ドイツの時代には、日本人が出入国するのに、
ビザを必要としました。東ドイツ国民が外国へ出られる国も限られていました。
私たち家族とディーターの家族が今のように行き来するようになったのは
ベルリンの壁が崩壊してからです。ディーターの家族は1996年、2005年、
2009年に日本へ来ています。私は1991年、1994年の家族旅行でディータ
ーのお宅にお邪魔して、今度が三度目ですが、夫がお邪魔したのは何度でしょうか。
1991年の家族でお邪魔する前にも、下見と称して夫は一人でディーター宅をお邪魔
しています。この時は胃の摘出手術をした後だったので心配しました。この一人旅を
認めたために、次々と夫の一人旅が始まったのでした。
 今日の話に戻ります。ウィーンマイドリン駅からまだ出発していませんでした。
マイドリン駅を午前5時半に出る列車がなく、7時の列車でチェコのプラハ計夕で
ドイツへ入る予定です。遅い列車になってしまったので、チェコのプラハに途中下車
できなくなりました。ディーターの家はベルリンから列車で南へ2時間ほどの所です
が、今回は南のドレスデンから北へ上がった方が近いようです。
 窓口で列車の連絡を調べてもらうことに。
日本と違うところは、列車の時刻と乗り継ぎ駅などをパソコンで
打ち出してくれることです。
ただ、これも窓口の人によって同じにならないところが不思議です。
 今日はチェコのブレクラフで乗り換え、ブラハを経由してドイツのドレスデンで
乗り換え、ルーランドで乗り換え、コトブスで乗り換え、グーベンの駅に
夕方6時に着くコースを選びました。ベルリンから南へのコースより近いといっても、
なんと乗り換えの多いことでしょう。また嫌な列車の乗り降りが憂鬱です。
ウィーンの駅でホームから落ちそうになってから列車の乗り降りには夫に
「手すり、手すり。」と私がうるさく言うものですから、夫も
「わかってる。何度も言うな。」と怒り口調になります。それでも私は
「手すり、手すり。」と、うるさく言うことにしました。二度と落ちるのはごめんです。
 チェコのブレクラフ駅に降りると、当たり前ですが駅のアナウンスはチェコ語です。
英語かドイツ語の話せそうな人を見つけて次に乗るドレスデンへの列車のホームを
探します。これも当然ですが、ドレスデン行きとは掲示されないのです。
大阪から名古屋へ行くのに東京行きに乗るわけですから、このドレスデンへ行くのも
ポーランドのワルシャワ行きでした。チェコ語のわからない者同志で情報を
交換しあいます。次に乗る列車の到着が遅れているらしく、表示もなければ、
アナウンスもされていないようです。ここでの乗り換え時間に余裕が
なかったはずなのです。あせって乗り込まないといけない時が、私には一番危険です。
ドレスデンの駅に着いてすぐディーターに電話を入れました。グーベンの駅に6時に
着くので迎えに来てもらうためです。携帯電話のない時代には手紙のやり取りで連絡を
取っていたので、一つのことを連絡し合うのも時間と手間のかかった時代からは
信じられない便利さです。
 ルーランド駅からの列車は、これまでと違う列車の
乗り口です。一応ホームと列車はフラットになっているようなのです。もちろん
ウィーンの環状線ほど開いてはいないですが、隙間はあります。それと列車のドアの
ところが7cmほど盛り上がっているのです。つまづきそうになりました。
後でわかりましたが、この車輌は自転車用の車輌だったのです。乗り込んだ自転車が
転落するのを防ぐためです。寄りによって乗りにくい車輌を選んで
乗ったことになります。
それなのに次のコトブスの駅から乗った車輌も自転車用の車輌でした。
何度もの乗り換えで夫もイライラしています。ここで私が文句を言っては夫のイライ
ラが増えるので、ここは抑えます。そしてまた「手すり、手すり。」とだけ夫に言います。
 あるガイドヘルパーさんが言いました。
「よくそんな23日間もご主人と旅行できますね。」と。
 そうですねえ、長旅には体力と辛抱が必要です。
 ディーター夫婦と会うのは二年前に二人が日本へ来て以来です。夫婦と大阪から
成田までレンタカーで岐阜や富士山に寄りながらいっしょに旅行しました。
 その旅行での夫の五大事件を暴露してしまいましょう。
その一、家を出てすぐスピード違反で捕まる。警察官に車から下ろされ違反切符を
切られているところをディーターが日本橋で買ったばかりのカメラでパチリ。
その二、家の鍵を門柱の上に置きわすれた。
家に帰った息子に知らされるまで二日間気がつかなかった。
その三、千葉のホテルの駐車場で財布を落とす。これは善良な日本人青年に拾われ戻
る。その四、車のトランクのドアを開けたまま走る。ディーターの奥さんユッタの大
声でやっと気がつき荷物の落下もなかった。
その五、ディーターたちの成田発の飛行機の時刻が朝早いので、前日にホテルから
空港までの道を下見したにもかかわらず、間違えた。飛行機には間に合った。
 これだけ並べると夫がいかにあわて者か。考えてみると、財布も何度盗られたり
落としたりしていることか。
 ディーターの家はドイツのブランデンブルグ州ピノー村にあります。敷地が500坪の
大きな家です。そんな家がポツンポツンと建っている田舎です。500坪の自宅の他にも
あちこちに土地や森を持っているようです。東西ドイツが統一されて西側から土地を
買いに来ると言っていました。
 家に入ると以前にお邪魔した間取りが思い浮かびます。玄関を入るとすぐ大きな木の
螺旋階段があります。私たちに二階の部屋を用意してくれましたが、奥さんのユッタは
その階段の上り下りが大丈夫かと、とても心配してくれました。二階に用意された部
屋は20畳はある広い部屋です。広すぎても見えない者には使いにくい部屋でもあり
ました。おまけにその部屋は普段この家の猫が寝床にしているようで、しきりに私たちの周りを
動き回ります。私は踏んづけないかといつも気がかりでした。ウィーンのおばあさんの
猫と同じように、ここの猫もあまり「ミャーミャー。」と鳴かないので居所が
わかりません。
 お祭りに行っていた息子のゴルドン一家が戻って来ました。2005年に婚約者の
ヤナと弟のゼーレンその婚約者のマンディーの四人で我が家に来て以来です。今は三
人の子供のパパになっています。
「ワーワー。キャーキャー。」と賑やかになりました。頬っぺたや顔にペイントを
しているようです。そのペイントを落とすと言って彼らはシャワー室に行きました。
このディーターの家、フィンランドのハマライネンの家、ウィーンのロンバートの家
でも彼らがシャワー室を使うのを見たのはこの時だけです。日本の夏ほど汗をかく
暑さではありませんが、日本人ほどお風呂好きではないのでしょうか。
だからシャワー室も狭いのでしょう。

 8月21日

 今日からまたお任せコースです。朝から近くのお祭りに連れて行って
くれます。「ここは自転車道で車は通ったらいけないんだ。」と言いながらディーターが
広い自転車道を車で走っています。なんとも広い自転車道だこと。
 楽団が生演奏をしています。周りには屋台のお店が並んでいます。村中の人が集ま
っているくらい、大勢の人です。同じテーブルにディーターのお父さんが来ています。
1994年に会って以来です。昨年奥さんを亡くされて元気を無くしていますが、私の
ことは覚えていると言ってくれました。
1994年にお会いしたのはクリスマスの日でした。
いっしょに教会へお参りしました。私たちはクリスチャンではないので静かに
しているように、写真も撮らないようにとディーターから注意を受けたのを
覚えています。それなのに募金の帽子が周って来た時には、させられたと言っては
いけませんが募金をしました。
 ディーターのお父さんには1991年に娘の夏休みの宿題として出されていた
「戦争体験者の話を聞く」のために体験を聴かせて頂きました。あのヒットラーが率
いたドイツ軍の兵隊として戦争に行かされたのです。ディーターの
お父さんが話す目は悲しそうだったのを忘れられません。
 お祭りの会場にディーターの次男のゼーレンと婚約者のマンディーも来ていました。
二人は六年前に我が家に来た時から婚約者で、いまだに結婚していません。
兄のゴルドンもそうであったように、こちらは正式に結婚するまでが長いようです。
 お昼ご飯はディーターの家に戻って「兎の肉のシチュー」を頂きました。鶏肉と
良く似た味です。以前にもディーターの家で頂いたのを良く覚えています。なぜかと
言えば、皮を剥いだ兎を地下室に吊るしてあるのを見たからです。
それを見た後でよく食べたと思いますが、一口食べるとおいしいので
吊るされた状態は頭から消えていたのでしょうね。今日のもおいしい兎です。
 もう午後に入ったのに今からポーランドへ車を走らせて
くれるようです。ポーランドとの国境になっているエルベ川は、すぐそばです。
エルベ川を超え一軒の家の前に車を止めるとディーターが
「ここが自分の母親の実家だ。今はポーランド人が住んでいるけどね。」と言いまし
た。戦前はドイツの領土だったのです。
 ポーランドの新しい大きなスーパーマーケットは駐車できないほどの、たくさんの
お客が来ています。スーパーマーケットの横に、今にも崩れそうな煉瓦造りの煙突が
そのまま建っていました。大きな工場跡地をスーパーマーケットにしたようです。
 コーヒーを飲みに入ったお店で、ディーターがポーランド語に苦労していました。
出てきたものは自分の注文したものとは違うと言いました。
私にきたアップルパイの大きいのにもビックリです。半分だけ食べて、
半分をユッタに食べてもらったのに私は夕飯を食べることができませんでした。
 そのお店から私たちをどこかへ連れて行こうとしているのですが、どうも道を
迷っているようです。車にナビが付いているのにと思いました。
でも聞くと国境を越えるとナビは効かないのだそうです。
ガソリンスタンドでドイツより安いガソリンを入れ、そこで今度はディーターより
ポーランド語の得意なユッタが道を聞いています。
そこはすぐの所でした。ドイツゲルマン民族のザクセン王が住んでいた城の跡です。
その繁栄の跡形もなく石の瓦礫と化した城跡です。これまでいろいろなお城を訪ねて
も、いまだに官邸として使われている国もあるというのに、どういうことでしょう。
ディーターが説明してくれました。ドイツの国ザクセン王の城はドイツの
領土の上に建っていたのが、戦後ポーランドの領土になってしまったために、略奪と
放置されたことで荒れ放題になってしまったと。それを現代になってeu(イーユー)が
修復しようとしているのだそうです。私にその崩れた城は見えませんが、前庭にある
噴水がいまだ水をふきだしています。大理石の女性の小さな像は触るとそのままです。
ザクセン王という名前は世界史の授業で習ったような気もしますが、あまり
覚えていません。ディーターにとってはここはドイツだと言わんばかりでした。

8月22日

 今日もディーターがスケジュールを組んでくれています。魚つりをしたいという夫の
ために川へ行ってから、シュプレーバルトの水郷巡りに連れて行ってくれるようです。
釣りに行く前にディーターのお父さんの様子を見に家へいっしょに行きます。お父さ
んはもう85歳で、昨年奥さんを亡くされて一人暮しなので息子のディーターは毎日
様子を見に行くのだそうです。
ディーターも六十歳になりますが、親の介護の問題はドイツでも深刻です。奥さんの
ユッタの親の介護もあれば、結婚しなかった叔母の介護もあります。ディーターは現
在は仕事をしていませんが、介護に忙しい状態だと言います。
 お父さんの家に行くとディーターが忙しく外周りの用事を片づけます。
兎の餌やりもです。この内の一匹を私たちは昨日頂いたのでしょうか。
 お母さんのお墓にも廻ります。ここは日本とは違い、土葬です。ディーターの
アルビヌス家のお墓にお参りします。我が家の座敷より、遥かに広い墓地です。
ディーターが日本と同じように墓石や墓地にお水をかけています。
 その後行った川での魚釣りは一匹も釣れませんでした。そこの漁師から虹鱒のような
魚を買ってスモークして食べさせてくれるようです。
ドイツでもスモークした魚はご馳走として
お客に出してくれるのですね。
ディーターが家に帰るとすぐその魚のウロコ取りを庭で始めました。フィンランドの
エサ・ハマライネンもウィーンのマニーもそうですが、ディーターも奥さんの
手伝いというか家事を良くまめにします。これは我が家の亭主とは大きな違いです。
現代の若いお父さんは違うようですが、我が家の亭主は昔のままです。ディーターも
エサ・ハマライネンも包丁でウロコを取っていたようなので、日本に帰ってから
ウロコ取りをプレゼントしました。それを実際に使ったディーターから
「これはいい。」とすぐメールが届きました。向こうにはウロコ取りはなかった
ようです。そもそも魚をそう頻繁に食べないからかもしれませんね。
 お昼ご飯は「グーラッシュ」というシチューです。豚肉、じゃがいも、玉ねぎ、
いんげんを煮て、ルーで、とろみを付け最後に酢が入れられています。酸っぱいシチ
ューです。この酸味が意外にもおいしいです。私は日本に帰ってから作ろうと、
この時思いました。実際に何度も作りました。
 水郷巡りのシュプレーバルトはドイツの南にあります。ディーターの家に来る時に
列車で通ったコトブスの近くです。ドイツの南はソルブ人が住んでいた所です。
だからコトブスなどドイツの南の地方の駅名はドイツ語とソルブ語の両方で
書かれています。ディーターの息子たちも学校でソルブ語も習ったそうです。
日本でいえばアイヌ語も習うということでしょうか。水郷巡りの船は15人くらいは
乗ったでしょうか。船頭さんが一人乗り込み、滋賀県の近江八幡の水郷巡りのように
竿一本で船を操ります。なので静かな水郷巡りです。ものすごく静かです。川の周りは
ソルブ陣が住んでいた萱葺きの家がポツンポツンとある森の中お、船はゆったり
ゆったりと進みます。一人乗りのカヌーが時々、水音をたてて通ります。ヨーロッパの
川は日本のように流れが速くありません。そしてパナマ運河のように関があって、そ
こへ来ると船頭さんが土手に降りて、水門をガラガラと上げて船を入れ、今度は下流
の水門をまたガラガラと手動で開きます。昔のままの手動で動かしているところが、
なんともいいですね。カヌーに犬といっしょに乗っていた人が叫んでいます。土手が近いので
乗っていた犬が勝手に降りてしまったようです。私たちの乗っている船の人たちがド
ッと笑いました。この水郷巡りにディーターは子供たちが小さい時に連れて
来たそうです。その時、銘々がカヌーに乗って廻ったので子供たちが迷子に
なったそうです。私たちが船で廻るコースでもたっぷり2時間かかりました。森の中の
運河を廻るのですから、迷子になるはずです。
 水門の上げ下ろしはもう一度ありました。乗客の一人が名のりを上げ、
作業を始めました。結構力が要るようで、
「これはダイエットできる。」とみんなを笑わせながら、ガラガラと水門を
上げていました。
 コトブスに住む次男のゼーレンのアパートに寄って帰ります。古いアパートですが、
内装やキッチンは最新です。日本に来た時の写真を出してきました。私がまだ少し
見えていた時です。ゼーレンも日本でおすしを食べてからおすしのファンだそうです。
また会いましょうと言って別れました。新婚旅行でまた日本へ来るかもしれません。
 夜、ディーターとワインを飲みながら難しい環境問題のことを話しました。それは
ディーターの家からそれほど遠くない所、ドイロビッツにできていた太陽光発電の
ことからです。ドイツにも福島の原発や地震、津波のことはニュースで伝わって
います。それでも津波のことはドイツもフィンランドもオーストリアも10mから1
5mとなぜか低く報道されていたようです。ドイツのメルケル首相が脱原発を宣言したことを
私たちは「すごい、素晴らしい。」とディーターに話しました。ディーターは
「何を言っているんだ。」と、書類をたくさん出してきました。今日ディーターの住む
ピノー村の近くで見た太陽光発電は10000kwの発電量だと言っています。
その広さは15haの森を潰して造られたものだそうです。そのためにメルケル首相は
森林保護の法律を換えて、これを造ったらしいです。これからも現在発電
している規模の10倍、100倍の太陽光発電が計画されているとディーターは
言います。「今日見た太陽光発電でも日本でこんな規模のは見たことがない。」と夫が
感動していたのに。ディーターが怒っています。それはこれからどんどん森が
潰されていくからです。持ってきた書類は太陽光発電の
建設反対運動の署名用紙でした。夫も「難しい問題やなあ。」と唸りました。
 メルケル首相の脱原発宣言にもまた自然破壊という側面があることを
ディーターに知らされました。

 8月23日

 今日は夕方の飛行機でドイツを離れます。ベルリンからローマへ飛びます。
ディーターがベルリンテーゲル空港まで送ってくれることになりました。
車で空港まで2時間ほどです。
 いつものおいしいドイツパンを頂きながら、1991年に
お邪魔した時の朝、パンを子供たちと買いに行ったことを奥さんのユッタに話しました。
「そのパン屋は今も来ているわ。」と言いました。日本での
「驢馬のパン屋さん」のように、朝、パン屋が車で近くまで売りに来るのです。
そのパンは以前と変らずおいしいので食べ過ぎてしまいます。
息子もあのパンの味が忘れられないと今も言います。
 奥さんのユッタはこの日、病院へ行く日です。この間まで脱臼して腕が
上がらなかったのだそうです。ユッタの帰りを待って、この家を離れることにします。
 荷物をまとめていると、この家の猫がまとわりついてきます。
「もう帰るんか。ミャーミャー。」という感じさえします。猫好きでない私たちも
悪い気はしません。
 庭でディーターが魚のスモークを始めました。庭は広く孫たちのためにブランコ、
滑り台、砂場とまるで公園です。孫たちはさっき、おじいちゃんの
ディーターが水を入れた大きなプールで遊び出しました。私たちにもすっかり
慣れてきました。昨夜は私たちといつまでも遊んでいたいのをベッドに追いやられ
寝ないので、お母さんのヤナに叱られました。大きな声をあげて泣いたものだから、
おばあちゃんのユッタが二階へ翔け上がりました。
おばあちゃんの助け舟は、どこの国も同じですね。
 庭でスモークされた魚を頂きます。ディーターが私のために食べ易いように
ほぐしてくれました。夫でさえしてくれたことがないというのに。この魚は油が
のって、とてもおいしかったです。
「フィンランドで食べたのよりもおいしいね。」と、夫に言いました。油がのって
おいしいというのはこちらも同じでディーターがしきりに
「フェット。フェット。」とドイツ語で油がのっていると言いました。
 ユッタが帰って来たので出発です。
今日はポツポツ雨が降り出しました。息子のゴルドンにベルリンテーゲル空港へのナ
ビを合わせてもらっています。ここでゴルドンの家族とお別れです。
ちっちゃなマリーンやアーロンともハグして別れます。なんてかわいいんでしょう。
 空港へ、雷雨の中を車が行きます。車で送ってもらっているお陰で
私たちはこの旅で全く雨に合うことのない旅になりました。
現在、洪水で大変なことになっているアユタヤやバンコクでも8月3日と4日は
快晴でした。ディーターの村からベルリンへは途中から高速道路に入ります。
ドイツの高速道路は無料です。片側5車線はあるのでしょう。制限速度はないようで
す。何年か前、夫が一人旅の時、偶然知り合った方に乗せてもらった車が猛スピード
だったので死ぬ思いだったと、帰ってから言っていました。
ディーターは安全運転で、そんなにスピードは出していません。
ベルリン市内に入るとディーターが「あれは新しく造っている空港だよ。」と。
またまた大きな空港を造っているようです。今でもベルリンには三カ所も空港が
あるのにです。そして、もうすぐベルリンテーゲル空港に着くという所で、
ナビが右へ曲がれと言うのをディーターが曲がれませんでした。
すると、こちらのナビは一言も指示を出さなくなりました。これには困りました。
ディーターもベルリンテーゲル空港へしょっちゅう来ているわけではないので
迷いました。それでも私たちが乗るベルリン航空はcゲートが良いと
わかっていて駐車場から1分歩いただけでチェックインできました。あちこちの空港を
利用しましたが、こんなに便利な空港は初めてです。
 ここのチェックインにも私が点字で目印をつけた予約表が出番です。
自動チェックインの機械に、予約ナンバーを
打ち込むタメデス。しかしこの自動チェックインはお勧めではありません。
簡単にチェックインできるとユッタの言うように一旦はそうしました。
でもナイフや鋏がカバンに入っていなくて、荷物を機内に持って入る人には良いので
すが私たちには向きませんでした。
 ディーターとユッタとは、ここでお別れです。お世話になりました。二人とは長い
付き合いなので、夫も泣いています。親の介護で今は大変のようですが、また二人には
日本に来てほしいです。まだまだ連れて行きたい所が日本にはいっぱいあるのです。
 ローマのダビンチ空港に着いたのは夜9時です。ターンテーブルの周りで荷物が
出てくるのを待ちます。また周りにいるのはイタリア人がほとんどです。大きな声で、
みんなといっていいくらい、しゃべるしゃべる。やはりここはイタリアです。昨日ま
での静けさと一変しました。おまけに荷物がなかなか出てきません。
どうも三つの飛行機の荷物を一つのターンテーブルで流しているようなのです。
これでは荷物の前に人が溢れて自分の荷物を見つけることができません。
夜が遅いから人件費の節約で一つのテーブルになっているのでしょうか。
なんともイタリア的です。夫もイライラして「やっぱりイタリアは嫌や。」と。
 ローマ市内に入ったのは夜遅くなりました。怖いローマの道を、予約したホテルまで
歩かなくてはなりません。駅から3分といっても、ほんとうに嫌な気分です。
そもそも明日またダビンチ空港から飛ぶというのに、空港から列車で30分乗って
ローマ市内へ入り、また明日、列車でダビンチ空港へ戻るという面倒な選択を、私たちは
しています。ただホテルのそばに、お土産を買うのに気に入ったスーパーマーケットを
見つけているだけのことなのです。この前ローマを離れる時以上に緊張してホテルへの
道を無言で急ぎます。「あわてんでもええ。」と夫。でも自然と速足に
なってしまいます。駅からえらく遠いように感じます。
 それなのにホテルに着くと夫が、「最後の晩餐に行こうか。」と。私はやっとホテ
ルに着いたのに、また外へ出るのかと思いました。それでも夫と離れてホテルで待つのは、
ローマでは怖いです。フィンランドのリトバがローマへの旅行でホテルの窓から
泥棒に入られたと聞きましたから。夫にすぐ隣りのレストランにしてと頼みました。
二十日前に入った同じレストランです。二十日前は食べ切れなかったので
、今夜は一人前を分けることにします。
 外国を旅して、同じレストランへ行くことはあまりありません。
  1991年の家族旅行で、ノルウェーのトロントハイムに行った時のことです。
その町のインフォメーションお勧めのレストランへ行きました。
ノルウェーといえば魚料理です。そのレストランはコックさんが全員女性で、
スモークされたサーモンをバラの花の形にするなど女らしい盛り付けが忘れられない
レストランです。あまりにおいしくて、二日目の夜もそのレストランへ行きました。
すると支払いの時、コーヒー代金をサービスしてくれました。それも忘れられません。
もし今回の旅でもノルウェーに行くことができたら、また行きたいレストランです。

 8月24日

 朝4時、携帯電話にメールが入りました。起こされてしまいました。日本の
友人からです。もう日本に帰っているだろうと思ってのメールでした。日本時間では
午前11時です。ちょうど今、私が通っている点字教室の時間です。
メールをしてみました。返信電話がかかり、遥かローマでクラスメートの声が耳に
届きました。懐かしい日本語の声です。
 ここのホテルは朝食付きではありません。外で朝食を摂って、そのまま
スーパーマーケットに行くことにします。スーパーマーケットの開店は朝8時と
早いです。日本のスーパーマーケットと違ってお酒の売り場がやたら広いです。
赤ワインのバローロは見つかりません。オリーブオイルとパスタをお土産に買います。
「オリーブオイルもスパゲティーも重いから、あんまり買うな。」と夫。
きっと空港で自分が飲むワインは、二人で六本買うことのできる制限まで買う
つもりでしょう。ワインは重くないのかと言いたい。
テルミニ駅の24番線の前で空港行きの切符を買います。昨夜空港からテルミニ駅への
切符が14ユーロ(1540円)だったのが、一晩たって15ユーロ
(1650円)です。文句を言っている時間はありませんがどうなっているのでしょう。
一晩で値上がりするのでしょうか。
 新婚旅行の時のイタリアで、先にお金を出してナポリまでと
切符を頼むと、お金はもらっていないと後でまた請求されました。
イタリアには気をつけろですね。
 ダビンチ空港への列車は満員でした。二年前の旅では私を障害者だから飛行機に先に
乗せてくれたために、免税店でワインを一本もかうことができませんでした。
今日、夫はひたすらワイン売り場をぐるぐる周っています。
私にはオリーブオイルは重いといったのに。もう勝手にして。
 さあ、いよいよローマからバンコク、バンコクから関西空港と帰路につきます。
外国への飛行機は夏といっても寒いくらい冷房を効かせているので、夏の服装で乗っては
いけません。風邪を弾いてしまいます。飛行機といわず空港もです。
今まで最も冷房を効かせていたのはカタールのドーハの空港です。
空港の外が50℃ほどなのでサービスのつもりなのでしょうか。

 8月25日

 やっとバンコクスバンナブルーム空港まで帰って来ました。この空港は新しい
空港ですが、ヨーロッパへ出る時に苦労させられました。
今日は関西空港行きのゲートを探していた時のことです。
ゲートは二回建てになっていますが、それを理解するのに時間がかかりました。
ゲートのナンバーの前に付くアルファベットのeが東ゲートを意味するeではないので
す。
二階には動く歩道も何もなく、1000m離れているゲートまで歩くしかない不便さ。
係りの人が「1000m歩いてください。」と言ったので本当に1000mです。
ゲートまで歩いても、またバスで飛行機の下まで乗らなくてはいけない不便さ。
そして飛行機の階段を上がらなくてはなりません。
これでは足の悪い人は大変です。
これが最新の空港とは。広いだけでは困りますよね。
今、洪水で大変な時に悪口を言って申し訳ありません。
 それからすると関西空港はコンパクトであっても利用し易く造られていると思います。
 帰って来ました。関西空港へ。
その関西空港へ三日後、ターンテーブルから取り忘れたカバンを受け取りに
行かなくてはなりませんでした。
最後の最後にも、やはり落ちが付く私たちの珍道中でした。

 23日間の旅はやはり長い旅でした。
十日目を過ぎてもまだ半分まで来ていないとため息が出ました。
若くはない二人で体力が持つかとも思いました。
あのイタリアでの大変さが続いていれば旅を続けられたかどうかわかりません。
後半の旅が友人宅でゆっくりさせて頂いたのが良かったのでしょう。
 新婚旅行のコースをたどるという目的は、この旅で実現しませんでしたが、
手に手を取って連れて行ってくれた夫に感謝します。
 でもわがままで、あわて者の夫について行った私の勇気も褒めてくださいませ。
 良く知っているお店のおばさんが「失礼やけど、旅行に行って何を見るの?」と
言いました。ほんとうに失礼です。
「見えなくても、いろんなものが見えるのよ。私たちは目で見るだけじゃないのよ。」
 旅は体力と出かける勇気と、やはり少しの辛抱ですか。

 二年前の「ギリシャ・イタリアを歩いて」は習ったばかりの点字でまとめました。
今回は昨年から習い始めたパソコンでまとめました。
 見えなくなっても文章を書くことができるのは喜びです。
 今回もみな様に読んで頂く機会を与えて頂き、お礼申し上げます。






趣味コーナーへ

JRPS大阪のトップへ

All Rights Reserved Copyright (C) JRPS-osaka-2011